dimness

 手放せなくなる前に、できるなら、父親の元に帰した方がいいと考えていた。
 なのに、
 悄然とした表情で、家には戻れなかったのだと察した時、
 まず覚えたのは、―― 紛れもなく安堵だった。

 薬箱を開け、手当てを始めたティアナがいきなり泣き出して慌てふためく。
「えっ、あっ、おい、なんで泣くんだ?
 怪我にびっくりしたのか? こんなのただの掠り傷なのに…」
「掠り傷だって、ばい菌が入ったら、そこから死んでしまうこともあるのよ。
 だから気を付けないとダメなのよ…!」
「ははっ、大袈裟だな…」
 真剣に心配していると判る分、先刻一瞬囚われた安堵が苦い痛みに変わる。
 声を震わせた反論をわざと軽く笑い飛ばしたが、緑の双眸は乾くどころかますます潤んでいった。
「大袈裟なんかじゃないわ。
 狼さんがいなくなってしまったら、私……。
 とっても哀しいわ…」
「―― おまえを食おうとしてる男なのにか?」
 『食料』ではない。
 だが“食べたい”と思ったことがないと言えば、嘘になる。
 低く問うた言葉は、どちらの意味で捉えられたのか。
 無論、直接尋ねられるはずもなく…。覗き込んだ瞳に見付けたのは、純粋な哀情だけだった。
「ええ、それでも哀しい。
 狼さんがいなくなってしまったら、哀しい」
「……まったく、参るな、ベイビー」
 急に逸らされた頬がまた濡れる。
 撃たれた腕を咄嗟に気遣う仕種が、いじらしくて堪らない。
 吐息混じりにその顎へと手を伸ばし、やや強引に再びこちらを向かせた。
「そんな可愛い顔で、俺の為に泣くなよ、ティアナ。
 男ってヤツは、いつだって女の涙には弱いんだ」
「あ…」
 唇に触れたい。
 女として求める衝迫(きもち)を、“ベイビー”と敢えて口にして張っていた予防線で押し留め、新たに浮かんだ雫を舐め取る。
「しっかり手当てしてくれよ。
 おまえが哀しむことにならないように」
「……判ったわ…」
 やわらかく微笑ってみせると、華奢な指が自ら残った涙を拭う。
 失いたくない存在になれている嬉しさと、表に出せない望みを抱えている苦悩。
 鬩ぎ合う二つの感情に揺らぎながら、ゆっくりと手当てを続けるのを黙って見つめていた。
 話せずにいる過去。
 この森はティアナにとって、忌まわしい場所だから。
 そう遠くないうちにここを出ていくべきで、自分は仮の保護者なのだから……。
 けれど徐々に大人びていくのを感じるたび、胸の内(なか)はざわめいて。
 増す情愛に、心も身体も…全てを欲してしまいたくなる。
 次の瞬間、罪悪感がそんな欲望を打ち消しても。
 秘めた熱は歪に凝(こご)り、仄暗く染まっていくようで ――― 。
 真実を隠し、あくまでも一歩引いた立場でいる。
 それは本当に正しい選択なのか…?
 堂々巡りの自問は迷いになり、明確な答えを得られぬまま。
 少なくとも今は、想いを無理矢理沈める以外できず静かに目を伏せた。

fin.

2012,04,22

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