振り上げたナイフを奪っていたら、そもそも罪を負わせず済んだ。
まず名前を呼べば良かった。肩を叩くより、血塗れの小さな身体をそっと抱きしめてやれば良かった。
魔女を残していくのを躊躇わず、駆け出した背中をすぐ追えば、少なくとも、最悪の状態で村に帰すことは避けられたのに……。
多くを失くしたあの夜は、
十年以上経った今でも、胸に苦く刻まれたまま…。
煌々と輝く月が、いつのまにか広がってきた黒雲に覆われる。
時を同じくして吹き始めた強風が足音を飲み込み、枯葉や千切れた葉を舞い上げて視界を閉ざす。
普段なら簡単に追い付ける距離がなかなか縮まらない。
森の出口付近まで来てようやく、闇の中に揺れるリンゴの髪飾りを見付ける。
「ティアナ!!」
鮮血に濡れたナイフを手にした後ろ姿を必死に呼び止め、次の一歩を踏み出した瞬間に、
全身を襲った、何かに引き戻される感覚。
不快な酩酊感が通り過ぎ、思わず瞬きをした後に映ったのは、
「―――」
朱(あけ)に染まったローブ。
横たわり、こちらを見上げる美しい顔。
それは苦痛に歪みながら、愉悦に満ちた笑みを浮かべてもいるようで。
どうして今、ここにいる?
何が起きたのか認識できず、ゆっくりと周囲を見回す。
夜気に混じり、濃い血の匂いが鼻を突く。
じわじわと迫り上がってくる悪寒はやがて、一つの答えへと姿を変えた。
魔女が最期にかけた呪いで、森に閉じ込められたのだと…。
もう開かない唇から発せられた哄笑が、耳の奥で鳴り響く。
濁った色の雲が空を塗り潰し、降り出した雨粒が唸る風に煽られていく。
ふと足元を掠めた、柔らかな感触。
腰を屈め、妹同様に可愛がっていた少女によく似た人形を拾い上げる。
いつか、返せるだろうか…?
その日の為にしっかりと胸に抱き、全てを掻き消していく轟音に抗い、きつく目を閉じた。
大好きな母親を刺したことが、トラウマになっていないだろうか。
クラウディアを殺したと疑われ、さらに村人を手に掛けた魔女の娘として、冷遇されていないだろうか。
安否すら確かめられず、
行き場のない繰り言は、澱のように心に降り積もる。
そして思い出すたび、願っている。
「初めまして、狼さん」
「……どうも」
「私、あなたに食べられに来たのよ」
「俺に…食べられに?」
少し生意気で、けれど笑顔が愛くるしい、とても大事な存在だった。
おまえには、
あの頃と変わらず笑っていてほしいと ――― 。
fin.
2012,08,18
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