辺境の冬の訪れは早い。
凍える夜気に吐く息は白く、小さな溜息さえも誤魔化せなくなる。
堕天使との戦いが終われば、天界に戻る。
それが自分の務めだと、当然の返答(こたえ)を耳にしても尚、想いは少しも揺るがない。
そして抑えた声で、アリア、と目の前にいる愛しい天使の名を呼んだ。
「無理な願いだとは分かっている」
―― 最初から。
届くことのない天(そら)。得られぬ陽光(ひかり)の恩恵。
愛する君は、それよりも更に遠く、遥かな存在で。
「それに俺は、君にできることなど何もない…。
でも、言わせてくれ…」
例えばその所為で、君との、勇者としての繋がりまで失うことになるのだとしても。
もう、……隠しておくことはできないから ――― 。
「もし、許されるのなら、君に、
ずっと…傍にいてほしい……」
「―――」
いつもとは違う雰囲気(くうき)に戸惑っていたのだろう。
自分に向けられた言葉に、先刻からただじっと耳を傾けていたアリアが大きく目を見開く。
次の瞬間、呆然とこちらを見ている空色の双眸から、幾粒もの涙が溢れて頬を伝った。
済まなそうに謝られることを予想して、それに対する心構えならできていた。
まさかこんな風に泣かれるとは、思いもしなかった。
彼女の涙の重さを知っているからこそ、後悔だけが増していく。
「…すまない。君が困ると、分かっていたのに…。
俺の身勝手な希みの為に、君が泣く必要はない…」
「……え? ……私、どうして泣いて…?」
頬に手を遣って初めて、気が付いたように。
それから我に返った天使は数度、瞬きを繰り返して。
そのたびに、新しい雫がまた、零れ落ちていく。
「…アリア?」
「……ごめんなさい。嬉しくて、…信じられないくらい、嬉しくて…。
私、全ての戦いが終わっても、この地上に残りたい。あなたの傍に、いたいです…」
首を少し傾げて、アリアの表情が泣き顔から笑顔に変わる。
まだ何処か信じ切れない思いを抱えながら、一歩、足を進める。
そしてまっすぐに、瞳を見合わせて。
そこに映る互いの姿に、ようやく自分の希みが叶えられたことを実感して、静かに微笑った。
ゆっくりと細い肩を両方の腕で包み込んで、抱き寄せる。
驚きの為か一瞬身体を硬くしたアリアも、やがて力を抜き、小さな額が胸に触れた。
「―― ありがとう。
その言葉が聞けて嬉しい…」
「クライヴ…」
「必ず竜を倒し、世界に光を取り戻そう」
「……はい」
微笑んで頷くアリアは、天使であり、また同時に間違いなく、自分だけの恋人で……。
「………」
天使様は、……アリア様の階級では、通常、
天界以外の世界に留まり続けることはできません。
レイブンルフト城に最後に乗り込む前に、シータスに聞いた話を思い出す。
ですから、地上で生きていかれるのならば、
相応の代償を必要とされます。
翼と、それに象徴される魔法。半永久的な生命(いのち)。
しかも依然として、この身に流れる奴の血の負の特性は消えていない。
陽射しの下(もと)を君と歩く。―― そんなことさえ、今もできずに。
君に、失わせることを望むばかりなのだと、
喉まで出かかった問いを、けれど淡く明るい青の睛眸を見つめてそのまま飲み込んだ。
きっと何もかもを承知した上で、君は、“地上に残りたい”と言ってくれたのだろうから…。
指で、涙の跡をやさしく拭く。
と、アリアは顔を紅くして俯いてしまう。
本当は口付けたかった。だが、触れられることに慣れていないアリアを怖がらせては何の意味もない。
代わりにもう一度、両手で、そっとそっと…抱きしめて。
別々に存在するはずの体温は徐々に溶け合って、心の奥にまで染み通る。
そこには既に、闇の影は欠片もなく。
君の笑顔をずっと、見つめていられるように。
“生きていたい”。―― そう、強く願った。
やっと告げられた、偽ることのない想いに、
奇跡以上の言葉で応えてくれた腕の中の君は、
―― 永遠に…この胸を照らす“光”。
初めての、満ち足りた気持ちから生まれた吐息は、冬の夜に束の間白く映り、消えていく。
それでも何かに護られているように、一人ここに立ち尽くしていた時のような寒さはもう、少しも感じられなかった。
fin.
2003,01,01
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