この地上を守護していた天使が人間(ひと)となって二度目の朝。
しかし、昨日と同じくカーテン越しのやわらかな陽射しに包まれた寝室でクライヴが目覚めた時、隣にその姿はなかった。
どうしたのだろう、と思う。
だが頭の中に薄い霧が掛かっていて、それ以上の思考はなかなか上手く形にならなかった。
夜に眠り朝に起きるという、これまでとは正反対の、けれどごく一般的な生活習慣が完全に身体に馴染むには、もう少し時間がかかるのかもしれない。
そう、妙に冷静に現状を分析する一方で、彼女に係わる全てが幻(ゆめ)だったのではないか。ふとそんな気持ちにもなって、まるで幼い迷い子になったような心細さに襲われる。
自分でも馬鹿げた不安に僅かに苦笑しつつ、ゆっくりと上半身を起こす。
そこで再び、彼女は何処に行ったのだろうとぼんやり考えていると、廊下から小さな足音が聞こえた。
ノブを回す音さえ立てずに、ドアが細く開く。
隙間から顔を出した彼の天使 ―― アリアは、クライヴが既に起きていることに気付いて満面の笑みを浮かべた。
「おはようございます、クライヴ」
「アリア…」
恋人の存在を実感し、また、笑顔が見られたことに安堵して、彼も静かに微笑む。
続けておはよう、と返しかけたが、寝室に入ってきた彼女を一目見るなり、クライヴは絶句した。
「……どうしたんだ? その格好は…」
思わず声もやや上擦ってしまう。
「これですか?」
アリアとしては、彼がこんなにも驚いているのが意外だったのだろう。
最初はきょとんとしていたが、寧ろ嬉しかったのか、無邪気に、身に着けたシンプルな白いエプロンの裾を軽く持ち上げた。
「以前降りた地上に、料理好きな勇者の方がいたんです。私もたまにお手伝いしていたら、彼女の提案でお揃いで作ろうってことになって…」
「……そうか…」
クライヴはようやくそれだけ答えると、ほんの少し視線を逸らす。ますます顔が熱くなっていくようで、彼女を正視していることができなかった。
疑問も半分しか解けていないが、どう尋ねればいいのか分からない。
それが表情から伝わったのか、アリアはくすりと微笑った。
「今、朝食を作っているんです」
その為に先に起き出し、生活時間が劇的に変化したばかりの彼を気遣ってそっと様子を見に来たのだろう。
そして、先刻から目を合わそうとしない何処か不自然な態度を問い質すこともなく、
「もうすぐ出来ますから、着替えて来てくださいね」
正に天使の微笑みを残して、華奢な背中がドアの向こうに消える。
足音も聞こえなくなると、クライヴは無意識に目を閉じ、大きく息を吐き出した。
脈拍は上がったままで、まだ落ち着く気配がない。
まさか、最愛の天使がエプロンを掛けて食事を作ってくれる姿を目にするとは、思ってもみなかった。
それだけのことに情けないほど動揺し、初めて肌を触れ合わせた時より照れてしまったのは、アリアにも一目瞭然だったに違いない。
ずっと傍にいてほしい。狂おしいまでにそう希んでいた。
けれど、随分と長く“家族”や“家庭”といったものと離れていたせいで、その想いと、同じ場所で生活を伴にすることとが、自分の中であまり結び付いていなかった。
逆に天使だった彼女の方が、初めから、地上に残るという言葉の先にあるものを精確に捉えていたのだろう。
改めてそれに気付き、おかしなものだと微苦笑する。
ただそこにあるのは自嘲ではなく、限りなく甘く幸せな感情(きもち)だった。
これから、過ぎていく何気ない毎日を、ふたりで一緒に積み重ねていく。
気負う必要などない。
でも、傍(ここ)に君がいることを、当然と思ったらそれは傲慢になる。
大切な存在(ひと)と過ごす“日常”。その意味を決して、履き違えることがないように…。
不思議にすっきりとした気分でベッドを出る。
それから手早く着替えを済ませると、クライヴは愛しい恋人の待つ朝の食卓へと歩き出した。
fin.
2005,01,11
初出(フェバ祭り!さま参加) 2004,12,07
現在文字数 0文字