恩人でもある師を、この手で切り捨てた日から。
大切なものなど、何もなかった。
レイブンルフト(やつ)を殺す。―― それだけが、生き存えている理由だった。
全てが変わり始めたのは、あの時。
魂の奥底で本当はずっと焦がれ続けていた、“光”のような少女の微笑みに、
瞳を、……心を、奪われた、一瞬 ――― 。
無表情のまま、襲い掛かってくるアンデッドに向かって刀を振るう。
一筋の鋭い閃光が昏闇に消えると、最後の一体が醜く崩れ落ちた。
その様を、やはり冷ややかに一瞥した彼の目が次に捉えたのは、上空から緩やかに降る、幾枚かの白い羽根 ――― 。
微かな羽音がそれに重なる。
そうして、月もない闇夜の墓場にはあまりにも不似合いな純白の翼が、彼の元へと舞い降りた。
細い肩に掛かる透き通るように淡い金の髪が、辺境の冷たい風に揺れる。
横たわる魔物達の屍に、少女は一度畏怖を含んだ視線を向けた。
だが、彼女はすぐに顔を上げ、澄んだ空色の瞳でまっすぐに彼を見つめた。
「あなたは、クライヴ・セイングレントですね?」
「………」
ふわりと、少女は微笑う。
その瞬間、何かのまやかしだと、立ち去ろうとしていた足が止まった。 ☆
名前を呼ぶ誰かの声が、心地好いなどと感じたのは初めてだった。
「私は天使、アリアといいます」
「……天使?」
はい、と答えた彼女は続けて、混乱する世界の為に、と彼に助力を願い出る。
不意に思い出したのは、唯一平穏に暮らしていられた、遠く、……短い日々(とき)の面影。
幼い頃、幾度も聞いた昔語り。
もう疾うに、忘れたと思っていたのに……。
「本当に、……いるのだな」
「…え?」
唐突な呟きに、目の前の天使はきょとんとした顔で彼を見る。
それに構うことなく、素っ気ない口調で彼は言った。
「俺に頼みたいことがあるなら来い…。お前の好きにしたらいい」
「ありがとうございます、クライヴ」
ようやくほっとしたのだろう。鮮やかな空の青を映す双眸から、その光彩を微妙に翳らせていた怯えの色が消える。首をほんの少し傾げると、アリアはやわらかな笑みを浮かべた。
「―――」
ふと心を掠めたのは、僅かに甘いような、それでいて痛みにも似た、……今まで知らなかった感情。
自分の中で、何かが、―― 変わっていく。そんな気がした。
けれど彼は、瞬時にそれを打ち消した。
この忌まわしい生命(いのち)を終わらせる、刻限はもうすぐそこまで迫っている。
望むのは唯一つ。
仇敵を、自らの手で葬り去ることだけだ。
奴らへの怒りが消える日など、永久に来ないのだから ――― 。
クライヴは少女の笑顔から目を逸らし、無言で背を向けた。狼狽し、呼び止める声も無視してその場を後にする。
追い掛けても無駄だと悟ったのだろうか。天使は小さく溜息をつく。それからゆっくりと羽根を広げる音が、生者のいない墓地に残された。
しかしそれを耳にしたクライヴは、知らぬ間に立ち止まっていた。
半歩ほど振り返り、空を仰ぐ。
そのまま、白い両翼が夜明け前の、最も深い闇にさえ飲み込まれずに天へと帰っていくのを、何処か複雑な思いで眺めていた。
「………」
地上の守護をする者と、まるで対極にいる、夜の中でしか生きられぬ者。
真に天の遣いならば、多少なりとも察知はしていたはずだ。なのに彼女は何故、伴に戦ってほしいと言ってきたのだろう…?
そして、
清廉な輝きは目の当たりにするたびきっと、断ち切れない血の宿命を更に思い知らされる。分かっていながら事実上、“天使の勇者”となることを然したる逡巡もなく呑んでしまった、自身の心を訝しむ。
滅亡という未来を、憂いたわけではない。
世界など、どうなっても構わない。
だが……。
「……アリア、か…」
そっと、天使の名を口にする。
そこに込められていた微かな、それでも確かな“愛しさ”に、彼が気付くことはないまま……。
暖かな陽射しの元へと彼を導く、ひとりの少女と出逢った最初の夜が静かに、終わろうとしていた。
fin.
2004,06,21
初出(コピー誌「Eternal」に収録) 2001,07,07
※イラストは、コピー誌収録時に南侑里さまに描いていただいたものです
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