春風

 小高い丘に続く坂は、徐々に狭く、険しくなる。けれどそれに伴って、クライヴの歩調が鈍ることはなかった。
 荒れた道を登り切ると、そこで一度空を見た。見慣れた微妙な色の違いから、まだ日付が変わってはいないことが、感覚で判る。
 奴らの気配もないこんな場所に、のんびり留まっているつもりはない。
 再び歩き出した彼の足を、しかし後ろから付いてきていた天使の驚きの声が止めさせた。
「クライヴ! あれ、見てください」
 アリアはわざわざ隣に来て、ぽつんと立っている一本の木を指差す。
 新月も疾うに沈んだ夜の闇に、鮮やかな緑の葉と、それにより更に浮かび上がる無数の真っ白な花片が揺れている。
 聞き慣れた羽音が耳の傍を通り過ぎ、微かな風が頬に触れた。
 何とはなしに目で追うと、低空飛行をした両翼が大木の前に降りる処だった。
 以前、木に咲く花が特に好きだと言っていた彼女らしく、小さな花びらが創り出す何処か幻想的な場景を、一心に見上げている。
 構わず先を急いでもいいという気はしたが、とりあえずクライヴは溜息をつきつつも天使の後に続く。
 途中で、それが見知ったものであることに気が付いた。
「……桜か」
「桜? 桜の花って、薄紅色じゃないんですか?」
 無意識の呟きは、しっかりと聞き取られていたらしい。首を傾げながら尋ねてくる様は、まるで天衣無縫な幼い子供のようで。
 だが彼は、生憎と答えを持ち合わせてはいなかった。
「そうなのか?」
 元々、花の種類などには詳しくない。尤もそれ以前に、自ら関心を持って世界を見ること自体が皆無に近いのだが。
 さしたる興味もないのが伝わったのだろう。アリアはくすりと笑った。
「私が見たことがあるのは皆そうだったんです。それに葉が出てくるのは、花の終わりの頃で…。
 あ、だけど、そう言われてみれば、花びらの形が同じですね。
 でも、珍しいですね。クライヴが花の名前を知っているなんて」
「……この木は、昔住んでいた家の庭にあったからな」
「そうなんですか…」
 こちらを見つめ返すアリアが、合わせた両手の人差し指を唇に当てて目を細める。向けられた笑顔に、クライヴは眉を寄せた。
 この天使を喜ばせることを言った覚えはなかった。
「何だ?」
「いえ、クライヴからそういったことを話してもらえることって今まであまりなかったので、なんだか嬉しくて…」
「………」
 不機嫌そうに黙ってしまったクライヴに、アリアはまたふっと微笑む。それ以上の追求をすることもなく、細い指先で自身の羽根と同じ色を持つ花弁に触れた。
 その風景に、心で、時が静かに巻き戻されていく。

      雪のように、散っていく白い花。

      温かな膝の上で、それはかつて、
      天より降り立ち地上を救った天使の翼の色だと聞いた、春の夜。

      他の子供に比べ、手にしていたものは限りなく少なく、
      それでも、幸せだった日々 ――― 。

「………」
 彼女といると時折こうして、忘れたはずの過去(おもいで)が、やわらかく心を行き過ぎる。
 束の間訪れる、穏やかな時間。
 出逢ったばかりの頃はそれも、単に煩わしいだけだった。
 なのに今はそんな時間を、不快だと思えなくなっている自分を識っている。
 静やかな水の流れにも似た変化は明らかに、目の前にいる天使によってもたらされたもので……。
「綺麗ですね」
 感歎を込めたアリアの声が、不意にクライヴを現在(いま)に引き戻す。
 ―― 確かに、綺麗だった。
 夜空に映える桜花に見惚れている、無垢な天使の横顔が。
 半ば自覚のない想いが、知らず口を衝いて出ていた。
「……そうだな」
 低い独白に、天使はゆっくりと振り向いた。彼の真意を、もちろん彼女は知る由もない。単純に自分の言葉への同意だと捉えたアリアは、ふんわりとした笑みを勇者に返した。
 強い風が、枝を鳴らして過ぎていく。空気さえ染め変えて降る花達に、アリアはもう一度大きな桜の木に視線を戻した。
「………」
 彼女が持つ、侵し難い清婉な光。けれど、零れ落ちる花びらを手のひらで受け止めてはしゃぐ姿は、地上の少女と変わらないようにも見えて ――― 。
 例えば、彼女が常に傍らにあれば、生き続ける唯一の動機でありながら同時に心身を蝕んでいく怒りが、消え去ることもあるのだろうか…?
 ふと過った、答える者のない問いを、クライヴは軽く首を振って頭から追い出した。
 どうかしている。
 一見頼りなさげなくせに、いつのまにか他人の心の内に深く入り込む。この少女の雰囲気に毒されているのかもしれない。
 それから否応なしに幼い頃を思い出させる、懐かしい花の色にも。
 だが早急にここを立ち去る気には何故か、なれなかった。
 緩やかな沈黙が、勇者と天使を包んでいく。
 純白の花片が舞い散る清夜にはただ、風音だけが響いていた。

 凍えた心にも春の風が吹く。
 胸の奥の、永久凍土にも似た苦しみさえいつか、溶かし出してしまうように。
 そして ――― 。
 自分の内(なか)に、“天使”ではない“アリア”がいることは、クライヴも認めざるを得なかった。

fin.

2001,06,10

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