「綺麗な月が出てます。今日、満月なんですね」
カーテンを閉めかけた手を止めて、アリアが半分こちらを振り返る。
その笑顔に、ベッドに腰掛けていたクライヴも何気なく窓の向こうを見遣った。
季節特有の、雲もないのに何処か霞のかかった夜空に、丸い月が浮かんでいる。
穏やかな景色に、けれど不意に、ある懸念が胸を掠めた。
……何故、今更…?
自分自身でもそう、疑問に思う。
なのに、打ち消そうとしても、消せない。逆に勢いを増して、心に陰を落としていく。
どうにか普段通りの表情と声音を装いつつ、ようやくクライヴは重い口を開いた。
「……君は月が、…怖くはないのか?」
かつて満月の光の元で、ヴァスティールはアンデッドの王へと変貌した。
自分がその男を父に持つことは、どれほど否定しようと変わらない事実。
しかしそれ故に、ずっと、夜の中でしか生きられなかった。
たとえ月が、時に計り知れない魔性を宿すのだとしても。月光を浴びることによって必ずしも、負の力が目覚めるとは限らない。
そうでなければ、この身は彼女に出逢う前に、疾うに血に狂っていたはずだ。
そしてそんな忌まわしい呪縛も、天竜を倒したことにより既に消えている。
分かっているのに…。
夜は恐ろしくない。
けれど昔よりも、闇に堕ちることが怖い。
それは、陽光の暖かさを知ってしまったから。
今ここにある日常(せかい)が、失った後のことを想像もできないほど、大事だから…。
短い言葉に込められていた思いをゆっくりとした瞬きで受け止めて、だがアリアは、驚くほど可憐に微笑んだ。
「―― はい。
でも、月を見るのが好きになったのは、クライヴに出逢ってからなんです。
訪問や同行の時などに、見る機会が増えて…。満ちては欠けて、欠けては満ちて、それに場所や季節によって、様々な美しさがあるんだって気付いたんです」
「………」
確かに、勇者として彼女と過ごした幾つもの夜を、満ち欠けを繰り返す月が照らしていた。
以前は感じなかった畏怖。
彼女の答えを愛しいと思う半面で、胸の奥に渦巻いていく、焦燥に似た気持ち。
自分がどうしたいのかも分からないまま、立ち上がる。
そのまま無言で歩み寄ると、クライヴは後ろから、小さな肩を抱き竦めた。
「クライヴ…?」
アリアが心配そうに彼の名を呼ぶ。
が、しっかりと視線を合わせようと振り向いた拍子に唇が重なりそうになって、彼女は思わず反射的に、前に向き直ってしまう。
瞬間、沸き上がる、凶暴な衝動。
それを止められずに、ほんのりと赤く染まる頬に手を遣って、強く引き寄せる。
そしてクライヴは、問い返す間さえ与えずに、桜色の唇を力任せに奪った。
「んっ…」
常にない強引さに戸惑うように、アリアの指が腕に触れる。
けれどすぐに、不安に駆り立てられた乱暴とも思える口付けを、やさしく受け入れ、応えてくれる。
それが、嬉しかった。
永い永いキスの後、見つめた春空の双眸にあるのもただ、彼を気遣う色だけで。
謝ろうと、……思うのに、声が上手く出てこない。
そんな、まるで泣き出す前の子供のように揺れる眼差しに、アリアはふと微笑むと、背中を自然に恋人の胸に預ける。
一瞬躊躇したものの、クライヴは今度はそっと彼女を抱きしめた。
「明日のお休み、何かもう予定はありますか?」
「いや…」
「それなら、お花見に行きませんか?」
「花見?」
「はい。隣町に桜がたくさん植えられている広場があって、今が満開だそうなんです」
花びらが薄紅色の方ですけど、とアリアは付け加える。
そういえばちょうど去年の今頃、同行していた彼女と、白い桜の花を見た。
自分の、彼女に対する想いの自覚もなく、それでも、
春風に雪が舞うような幻想的な風景の中に、いつまでもふたりでいたかった ――― 。
「……そうだな。ふたりで、見に行こう…」
「じゃあ、お弁当作りますね」
「―――」
全てを赦し、癒してくれる微笑み。
また少しだけ、愛する少女(ひと)に触れる腕に力を込めて。
君がいれば、
月の光もやさしくなる。
君が見付けたことを笑顔で教えてくれるたびに、
心の中で、綺麗なものが増えていくから……。
大切に大切に包み込んだ、愛おしい…翼のない“天使”。
どんな苦悩が目の前に立ち塞がったとしても、この温もりがあればきっと、生きていける。
再び見上げた朧月の光は、先刻恐れを抱(いだ)いたことが不思議なほど、やわらかくて。
クライヴは瞳を閉じて、明日ふたりで初めて見る春の花に想いを馳せた。
fin.
2003,04,21
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