Healing

 静まり返った深い夜の空に、下弦の月がぼんやりと浮かんでいる。
 ドライハウプ湖のある方角から吹き付ける、悪魔による禍災に翻弄される地上を嗤笑するかの如き狂風。
 嘲るように髪を嬲っていく残虐な意思に、天使は肩を震わせた。
 大気を通して肌を刺す邪悪な波動は、リナレスに入った頃から更に強大になっていた。
 かつて幾度か対峙し、目の当たりにした堕天使の力。ガープとの死闘が脳裏を過る。
 不意に襲われた息苦しさに、先を行く黒髪の背中を見ていることができなくなって、アリアは思わず視線を逸らした。
 最後の戦いをクライヴに依頼したのは、現時点で彼が、勇者としての有らゆる能力に最も秀でているという、極めて客観的な判断に基づいていた。
 なのに、今になって迷いに心が揺らぐのは、どうしても、恋人として身を案じてしまうからだ。
 使命と責任。躊躇いと恐悸。
 押し潰されそうな感情の波が、重い溜息へと形を変える。
 数歩前を歩いていたクライヴは、それを敏感に聞き取って足を止める。そして、振り返り見遣った愛しい少女の憂い顔に、彼もまた僅かに眉を寄せた。
「―― アリア、どうした?」
 静かな問い掛けが耳に届いても、すぐには反応できない。
 不自然な間を置いてようやく我に返った天使は、翼を畳んで地面に降りる。その動作にも全く覇気がなかった。
「……ごめんなさい。堕天使の城まで後少しなので、やっぱりちょっと、……緊張しているみたいです…」
 でも平気だと続けようとしたが、声が震えてしまうのを抑えられない。結局口籠り、何も言えなくなってしまった。
 ここで“天使”が弱音を吐いたとしても、彼は咎めることなく受け止めてくれる。
 判っていたが、けれどそうすることで、際限なく甘えてしまいたくなりそうな自分が怖かった。
「………」
 息を殺すように下を向いてしまったアリアを、クライヴは無言のままふわりと抱き寄せる。
 全てを包み込む、やさしいやさしい抱擁。
 愛する人の腕の中では、先刻まであれほど脅かされていた、狂った風音さえ遠く過ぎ去っていくようで。
 不思議な安らぎを感じながらそっと顔を上げると、温かい手が頬に触れた。
「……クライヴ…」
 無意識に口にした名前に返る答えはなく、ただ紫の瞳が近づく。熱を秘めた眼差しに惹き込まれて知らず、目を閉じた。
 唇に感じた、やわらかな、初めての温もり。しかしそれは、本当に一瞬のことだった。
「……すまない」
 耳のすぐ傍で聞こえた、低く微かな呟き。
 鼓動が早まる。瞬きと深呼吸の後で、アリアは首を振った。
「…いえ、あの、……うれしい、です…」
 消え入りそうな声でどうにかそれだけ言うと、小さく俯く。
 彼女の様子に安堵したように微笑うと、クライヴはもう一度細い両肩を、今度はやや強く抱きしめた。
「堕天使と天竜は、必ず俺が倒す。
 ―― そして、一緒に生きていこう…」
「―――」
 今までクライヴから、こんなにもはっきりと、“生きる”という言葉を聞いたことはなかった。
 驚いて目を瞠る天使に、彼は少し、苦笑する。
 アリアは、宿命も葛藤も乗り越えた穏やかな双眸を見つめ返し、笑顔で大きく頷いた。
 再び重ねられた唇に、ぎこちないながらもゆっくりと応えていく。
 繰り返される口付けは、次第に深くなっていった。
「……ん…っ…」
 甘い吐息が零れる。
 軽い眩暈を覚えて、足元がふらつく。
 クライヴが落ち着いた動きで抱き止めてくれたことに気付いたが、そのまま支えられて立っているだけで精一杯だった。
 頬がこれまでになく熱くなっているのを自覚しつつも、何とか呼吸を整える。
 でもまだ恋人の顔をまともに見ることはできなくて、代わりにアリアは、おずおずとではあるが彼の背中に腕を回した。
 溶け合っていく体温(ぬくもり)が、張り詰めていた不安をほどいていく。

      ……大丈夫。
      この人はもう、何者にも負けたりしない。

      伴に、どんな敵にだって、
      臆することなく立ち向かっていける ――― 。

 勇者と天使としてではないひとときにより生まれた揺るぎない決意(おもい)を、アリアはしっかりと心に留(とど)めた。
 だが同時に、思ってしまう。
 何もかも忘れて、このまま傍にいられたらいいのに、と…。
 恋情はきっと、諸刃の剣(つるぎ)。
 一つ間違えば、堕天にも劣る望蜀に搦め捕られてしまう。
 だからこそ、恋い慕う気持ちの片隅に確かにある我意を正直に認めた上で、それを胸の奥底へと仕舞い込んだ。
 与えられた責務としてだけではなく、また偽善でもなく。
 護りたい、大切な世界がここにあるから……。
「クライヴ」
 先程までとは明らかに違う声音に、クライヴは彼女の心情の変化を察して腕を放す。
 アリアは自分からも一歩身を退くと、控えめだが本来の芯の強さを感じさせる笑顔を見せた。
「一旦、報告に戻ります」
「そうか…」
「シータスに同行をお願いしておくので、何かあったらすぐに呼んでください」
「ああ。
 アリア、もう、……平気か?」
「はい。―― だって、クライヴがいてくれますから」
 にこっと微笑うと、翼を広げた。羽音に伴う微風が、クライヴの前髪を揺らしていく。
 そうして、夜の向こうで緩やかに白み始めていく空に飛び立つ天使を、紫石英の睛眸がやさしく見つめていた。

 ―― 決戦までは、後僅か。
 それでも、懼れるものなんて何もない。
 胸の前で両手を握り締めるようにぎゅっと合わせて、アリアは一度瞳(め)を伏せた。
 朝の陽に、冷たい夜の空気がふっと消えていく。
 そんな暁の光にも負けないほど貴く毅い想いが、今はこの心の中に在る。
 これは、あなたがくれた勇気(ちから)。
 そしてその温もりが、言葉が、―― あなたの存在の全てが、どんな呪文よりも温かで、やわらかな癒しの魔法。

fin.

2005,01,01
初出(コピー誌「Primal」に収録) 2001,08,12

※イラストは、コピー誌収録時に南侑里さまに描いていただいたものです

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