ふと目を覚ますと、部屋の中はまだ、穏やかな夜の闇が支配していた。
隣で眠る恋人を、クライヴは無意識に抱き寄せる。
天使 ―― 翼を天に還し、今は彼だけの天使になったアリアは、その腕の中で幸せそうに眠っていた。
火照りの引いた肌に、彼の触れた痕が紅く残されている。
恥じらいと戸惑いに頬を染め、初めての痛みに瞳を濡らしながらも全てを受け入れてくれた彼女が、喩えようもないほど愛おしかった。
やや乱れた淡い金の髪を片手で梳いていく。
幾度かそうしてさらさらと指を過ぎる手触りを確かめていると、空色の双眸がゆっくりと開かれた。
「……クライ…ヴ…?」
寝起きのせいかいつもより舌足らずな声に、クライヴは小さく微笑う。
アリアはぼんやりしたまま、一瞬、それに見とれていた。
しかし数回瞬きするうちに、今の状況と先刻までの時間を思い出したのだろう。真っ赤になった元天使の少女は慌てて彼に背を向けた。
それが羞恥の為だと分かっていたクライヴは、再び彼女の身体を引き寄せようと腕を伸ばす。
だが白く滑らかな背中の手前で、彼はぎくりと手を止めた。
息を詰めて見つめる、その視線の先にあるのは、
間近で見なければ気付かないほど細い、二筋の傷跡 ――― 。
それが何なのか、改めて確認するまでもなかった。
そこはほんの少し前まで、彼女の、純白の両翼があった場所。
きっとアリア自身は、こんな傷があることも知らないのだろう。そうでなければ、これほど無防備に彼に背中を見せるはずがない。
「………」
―― 思い出す。
彼女に初めて出逢ったのも、新月の夜だった。
音もなく、舞い降りた白い羽根。
どんな光より眩しく、やわらかな微笑みに、
抗いようもなく魅せられた、あの瞬間を ――― 。
そしていつからか彼女は、自分にとっては“天使”であるより先に、ただひとりの“アリア”になっていた。
―― けれど。
天使が、天使としてではなく地上に降りる。その意味を、クライヴは今更のように噛み締めた。
翼を捨てるということは、それまで天界で生きてきた全てを捨てるということなのだと……。
それでも、
いいのか? 本当に……
そう問うた時アリアが見せた笑顔に、偽りはないと識っている。
だから……。
何処か祈りにも似た想いを込めて、クライヴは静かに、愛しい少女の背中に口付けた。
微かに震えた華奢な肩を左手だけで支えると、そのまま唇でそっと、翼の跡を辿っていく。
「クライヴ……」
甘い囁きに、唇を離す。後ろから抱きしめると、応えるように耳元で名前を呼んだ。
「……アリア…」
もう一度、そう呟く。
ややあって、アリアの口から零れた長く切ない吐息に、クライヴは僅かに腕をほどいた。
「どうした…?」
「……背中から大好きな人の鼓動を感じるのって、なんだかものすごーく、どきどきしますね」
「………」
微妙に笑みを含んだ声が耳をくすぐる。
無言のまま抱き寄せる力を強めると、アリアはその手に軽くキスをした。
もう、言葉は何も要らなかった。
互いの温もりを伝え合いながら、ふたりはまたやさしい微睡みに落ちていく。
holy night.
天使が愛する勇者の腕の中で、人間(ひと)に生まれ変わった聖なる夜 ――― 。
fin.
2001,06,24
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