虹の花

 薄雲に溶けていきそうに滲んだ月が浮かんでいる。
 呼び掛けられ剣を仕舞うと、振り返った先に小さな着ぐるみがいた。
「フロリンダか。どうした?」
「リリィがクライヴ様の同行に来るのが遅れるみたいなんですけど、大丈夫ですかぁ?」
「特に問題はない。急がなくていいと伝えてくれ」
「はぁーい! わかりましたあ」
「……それは何だ?」
 ペンギンの格好では持ちにくいのか、眼前でゆらゆらと揺れている覚えのある花に、同時にちぐはぐな印象を感じて尋ねる。
 フロリンダは得意げに、淡いピンクの花弁をクライヴに向けた。
「虹の花ですぅ。
 普通は春と夏の間に咲くので、こんな時期にはめずらしいんです。だから天使様へのお土産です!」
「そうか…」
「じゃあフロリンは帰りますぅ」
 ぺこりと頭を下げ、妖精は夜空へ消える。
 先刻の違和感は季節のせいだろう。幼い頃見たのは確かに初夏だった。
 もう一つの理由は…。
 『虹の花』
 昔聞いたのは、別の名前だった気がする。
 軽く目を閉じ、クライヴは遠い記憶を辿った。
 色は違うが、時折居間に飾られていた。
 おそらく養母が好きだったのだろう。いつだったか、由来となった物語を話していた。
 七色の橋を通り、天上の預言を人々に届けた少女。様々な彩りで咲く花を少女になぞらえ、付いた名が…。
「―― アイリス」
 呟いて、声音に含まれていた淋しげな響きに戸惑う。
 虹を渡る伝令に喩えられる愛らしい花。明るい陽光が似合う姿がアリアに重なる。
 想いを告げたあの日、一度は飲み込んだ問いが過る。
 逃げ道にはしないと決めた罪悪感。彼女に相応しい男である為に、毅くありたいと願う気持ちも変わっていない。
 だが恋人として過ごす時間が増え、ふたりで生きる未来が現実味を帯びてきたことが逆に、打ち消したはずの不安を呼び起こす。
 大切にしたいからこそ、自分が得るものと彼女が失うものの差を考えてしまう。
 昼夜が逆転した生活は、どれほどの苦労を強いてしまうのか。
 不幸にさせるのではないか……。

      逢いたい。

 今すぐに。
 偽りのない笑顔を見れば、全部乗り越えていけるときっと…信じられる。
 孤独も弱さも、覆い隠していた怒りが消えて誤魔化せなくなった。
 アリアが傍にいないと、ふとした瞬間、こうして不甲斐ない感傷に囚われる。
 まるで、夜に怯えて泣く子供のように。
「クライヴ…!」
「!」
 愛おしい気配に空を仰ぐ。
 両翼を大きくはためかせた天使が、酷く慌てた様子で舞い降りてくる。
「………」
 一人取り残された闇を照らす声。ぐらつく心を繋いでくれる手。
 そんな幻影に胸が震えた。
「ごめんなさい、私の説明が悪くてフロリンダが誤解を、……え!?」
 気付いたら、その足が地に着く前に抱きしめていた。
 驚く瞳がこちらを見上げる。
 しかし視線が重なった途端、透き通る青はやわらかく伏せられ、温かな頬がただそっと寄せられた。
 言葉にできない憂苦を包み込む、言葉ではないやさしさ。
 本当は、判っている。
 迷っているのは自分だけだと。受け止めてもらえると、識っていて甘えているのも。

   すまない…。

 吐息にすらならず静寂に紛れた謝罪(ことば)に、応えは緩やかに首を振る仕種で。

      雨が止み、雲が切れる。

      降り注ぐ陽射しを反射して、
      鮮やかな光が弧を描く。

 実際には知らない景色が、腕の中に広がる錯覚。
 ここに、最も美しい虹の花が咲いている。
 枯らさぬ為に必要なのは、卑下や悲観ではない。
 伴に幸せで在れるよう、すべきことは他にある。
 決心(おもい)は、やがて静かに満ちていく。
 人間としてごく当たり前の日々さえ望めぬ身で伸ばした手を取ってくれた君から、俺は多くを奪う。
 それでも、この温もりを手放せないのなら。
 代わりには、ならないかもしれないけれど。
 何があっても、俺の全てで君を護ろう。
 そして君に、与え得る限りの愛を ――― 。

fin.

2012,11,23

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