窓の向こうで、雨混じりの風が断続的に鳴っている。
今日は午後からふたりで市場に行く予定だったが、生憎の悪天候に日を改めることになった。
ソファーに並んで座り、仄かに甘い湯気の立つ、揃いのティーカップをゆっくり手に取る。
一息置くと、クライヴは少し前から気に掛かっていたことを切り出した。
「アリア、君が以前降りた地上の話を聞いてもいいか?」
「はい。口外を禁じられていることもあるので、全部は答えられないかもしれませんが…」
もちろん許されている範囲で構わない。そう言い、まずは勇者達とどんな風に接していたのかを尋ねる。
アリアは掟を思い出しているのか、時折言葉を選ぶように考え込んではいたが、懐かしさに綻ぶ唇に、彼らとは良好な関係を築いていたのが見て取れた。
「君に地上に残ってほしいという、男の勇者はいなかったのか?」
「ええ。きっと私は、そういう対象ではなかったんですね」
一段落した処でようやく、なるべく自然に、一番懸念していたことを口にする。
対する即答に、表情は変えないまま内心ではかなり安堵し、再びカップを手にした時だった。
「でも皆さん、戦いが終わったら天界に帰るのかと聞いてくれて…」
「―――」
穏やかな口調の、しかし彼にとっては衝撃的な発言に、危うく紅茶を吹き出しかける。
けれど、会えなくなるのは淋しかったが、別れを惜しんでもらえる存在になれたのが嬉しかったと続ける笑顔に、辛うじて動揺ごとそれを飲み込んだ。
先日アイリーンの提案で、天使の勇者だった者達が聖都に集まり、初めて全員が顔を合わせた。
それぞれ個性の強い、現在の立場も様々な一同だったが、アリアを中心にした集いの為か、場は終始和やかだった。
誰もがアリアとの再会を喜んでいた。賑わいだやり取りの中で、男の勇者は皆、多少なりとも天使に特別な感情を持っていた時期(こと)があると感じた。
十中八九、その地上の勇者も同じだったに違いない。
口振りからして、“皆さん”には女勇者も含まれているのだろう。とはいえ、そこにあった“違い”に全く気付いていない辺りが、ある意味非常に彼女らしいのだが…。
天竜を倒し、この世界が平和になれば、
天界に戻るのか?
冷たく冴える空に竜の姿を認めた、初冬の夜。
近づく『最後の時』を知っても、初めて愛した存在(ひと)を、自ら諦める術(すべ)が分からなくて。
秘めていることもできずに、そう…問わずにはいられなかった。
もし他者との関係を築くことに長けていたなら、他の男勇者と同様に、それ以上何も告げずに身を引いていたのかもしれない。
アリアは純白の翼と伴に天に帰り、もう、地上に降り立つことはなかったのかもしれない ――― 。
「クライヴ…? さっき、ちょっと怒っていたように見えたんですけど…。
もしかしてこのお茶、口に合いませんか?」
「……いや。とても美味しい。思っていたよりまだ熱くて、少し驚いただけだ」
「大丈夫ですか? 火傷、しませんでした?」
「ああ」
心配げにこちらを見つめる彼だけの天使を、緩やかに腕の中に引き寄せる。
そのまま髪を撫でると、何かを察したのか、そっと視線を落とした額が肩に触れた。
勇者達との親交に気を揉んでいたのは、有り体に言ってしまえば、軽い嫉妬からだった。
まさかこれほど心を揺らされるとは、予想外だったけれど…。
いま確かに、抱きしめている天使(ひかり)。
生まれた時から縛られていた、闇の血と死の鎖さえ、
君と出逢う為に、
あの日君に、ただ不器用に、傍にいてほしいと伝える為にあったのなら、
それはきっと自分の内(なか)で、光(ここ)に繋がる軌跡へと変わっていくから。
「―― 恋をして、人として地上に降りた天使の話は何度か聞いていたし、私も任務中に、次はあなたじゃないのってからかわれたことがあります。
でも、私がそんな風に愛してもらえるなんて、想像もできなくて…」
やわらかな沈黙の後だった。
続けられた思い出(こえ)は先刻の笑顔が一転、ともすると、唸る風の音に消えそうで。
だから、とアリアは静かに瞳を上げる。
澄みやかな青は、僅かだが潤みを帯びていた。
「こうしてクライヴの傍にいられるのが、すごく…嬉しいです」
「俺も、……嬉しい…」
ありがとう。
ありがとうございます。
期せずして重なった言葉に驚き、揃ってまた一瞬黙り込む。
もう一度互いに顔を見合わせ、胸を満たしていく甘い幸福感(きもち)に微笑い合いながら。
同時にクライヴは、未だ彼女がしている誤解が、このまま解けないようにと密かに願っていた。
fin.
2009,09,18
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