Moonlit Nocturne

      判ってほしい。
      ―― 君にだけは。

      狂える血に囚われそうな、心をその光で照らして……。
      傍でずっと、変わらない笑顔を見せて ――― 。

 青銀の月光の元で、湖を囲む木立ちがひっそりと浮かび上がる。時折吹き過ぎる風に、満ちた姿を映す水面(みなも)が揺らめく。
 一千年前天竜が終焉を迎えた地にも拘らず、今ここには確かに、静謐な空気が存在していた。
 微かな溜息さえ遠く響く静けさの中で、剣を手に、幾度となく遥かな天を仰ぐ。
 真夜中の紫黒色の空に、鮮明な軌跡を描く白い翼を探す。
 あの日から、そんなことばかり繰り返していた。
「………」
 酷く冷たい言葉で傷つけた。何も思うこともないと言い捨てたのに。
 矛盾だと判っていて、彼女の笑顔を、名前を呼ぶ声を、……待っている。
 既に誤魔化すことのできなくなった、想いが胸の中に在る。
 そして儚い希みと紙一重の醜い我欲が、闇の淵で鬩ぎ合っていることを自覚していた。
 穢れなき純白を身に纏う、天上に住まう者。
 彼女をいっそ滅茶滅茶に壊して、血の誘惑に堕ちてしまえば、こんな迷妄や痛苦すらも、感じなく……なるのだろうか…?

   ぱさり…

 軽い羽ばたきを耳にして、振り返る。
 微光を宿す真っ白な羽根が、満月よりも鮮やかに、夜陰を溶かして降臨する。
 両翼の動きを妨げる木々のない草の上に降りた天使は、すぐにクライヴの処へと駆け寄った。
「こんばんは、クライヴ。今夜は月がとても綺麗ですね」
「……どうした?」
 彼女の来訪を待ち焦がれていたくせに、口から出るのは素っ気ない一言だけで。
 しかし彼の、他者に対する何処か無機的な言動は今に始まったことではない。アリアは特に気分を害した様子もなく、いつものように笑顔を見せた。
「大きな事件が起こっているわけではないんですが、昨夜から付近の混乱度が少し高くなっているので、クライヴがどうされているかと思って…」
「別に、変わったことなどない」
「そうですか。…良かった」
「………」
 何故彼女は、心からの気遣いを撥ね付けた相手にさえも、これほど純粋で綺麗な微笑みを向けてくれるのだろう。
 これまでもそうだった。
 細い双肩に一つの世界の命運を預けられてもなお、凛と背を伸ばし、明日を見つめる。
 それはきっと、彼女の内に秘められた芯の毅さ。
 常に誠実に、混迷する者を導く瞳に知らずずっと、救われてきた。
 そしていつのまにか、どんなに酷薄な態度を取っても彼女ならこの手を放すことはないと、そのやさしさに甘えていたのかもしれない……。
「―― アリア」
「はい?」
「…俺は天使の、……君の勇者でいていいのか…?」
「……クライヴ?」
 余りに唐突な、しかも徒ならぬ問いに、アリアは不安げに顔を曇らせる。
 これ以上口にすれば、彼女をまた、哀しませてしまうのだろう。
 重く鈍く胸を襲う痛みを覚えながらも、クライヴは、更に奥底から押し寄せてくる疑念を振り払うことができなかった。
「……すまない…。
 ただ俺は、やはり俺自身を、……信じることができないんだ…。次の瞬間にも闇の血に屈した俺が、…君を、手に掛けたら、と……」
 先刻頭を擡げた、昏い欲望を思い出す。
 傍にいてほしい。失いたくない。―― 本来は同じであるはずの想いが一つにならない。
 得られることのない光を、それでも欲して止まないように。時に狂気すら孕むほどに彼女を求めている自分がいると、もう、気が付いてしまったから……。
「………」
 アリアは、泣き出しそうな眼差しで暗く沈む紫紺の双眸を見上げ、しばらく黙り込んでいた。
 桜色の唇から、ふと零れた小さな吐息。同時に彼女はゆっくりと腕を伸ばし、両方の手のひらで包み込んだクライヴの頬をごく軽く叩く。
 まるで迷宮にも似た悪夢から、目醒めさせるかのように。
 そうして未だ困惑している彼に、ひたむきな視線を逸らすことなく再び微笑んだ。
「私は、闇の血が持つ邪悪な魔力よりもあなたを信じます。
 あなたがいつか穏やかに、明日を思える日が来ることを…」
「―――」
 それは、己の弱さに惑う勇者を叱責する預言者ではなく、固く閉ざされた心を癒そうとしてくれている、ひとりの少女の言葉に聴こえた。
 ―― 自惚れかもしれない。自分がそう、思っていたいだけかもしれない。
 判っている、けれど……。

      ………どうか、信じさせて。

      誰より、何より大切な、君が語る全てのことを。

      闇に取り込まれることでも、死でもない。
      君が教えてくれる“未来”を ――― 。

 不意にクライヴは、華奢な天使の左の腕を寄り掛かるように掴んで、その反対側の肩に顔を埋めた。
 突然のことに、アリアが一瞬身体を震えさせたのが伝わってくる。
 驚かせるつもりなどなかったが、今はこのまま、彼女の存在(ぬくもり)を確かに感じていたかった。
「……少しだけでいい、こうしていてくれ…。頼む……」
「クライヴ…」
 掠れた、切なげな願いに、返るのはやさしく名前を呼ぶ声。
 自由になる方の手で、アリアはそっと、クライヴの癖のない髪に触れた。
「―― 大丈夫です。あなたは絶対、レイブンルフトの……天竜の血になんか、負けません…。
 だから自分を、怖がらないでください…」
 葉ずれと重なり合う囁きに、あれほど苛まれ続けてきた怒りも恐怖も、―― 有らゆる負の感情が浄化されていく。
 母の、養父母の、師の、仇であることに変わりはない。それでも、永い孤独を耐えた末に、自らが倒したはずの竜の血に狂わされたレイブンルフトを初めて、哀れだと思った。
 そして私怨だけではなく、この身に奴の血が流れているからこそ、自分にはその歪んだ生を終わらせる責任があるのだと……。
 気付けば心は、緩やかに凪いでいて。
 押し潰されそうだった息苦しさも全て、消えていく。
 湖を渡る夜風が揺らす、春の陽射しを思わせる金の髪が頬に触れる。
 今まで知ることもなかったやわらかな感触は、いつか深い愛おしさへと変わっていった。

 ―― 抱きしめたい。

 掛け替えのない存在(ひと)を、今度こそ奪われてしまわぬように。
 後少し腕を動かせば叶う衝動を、しかしクライヴは敢えて、断ち切った。
 天界の使者と地上の勇者。そこに厳然としてある境界線はまだ…、越えられない。
 だがレイブンルフトを倒し、宿命に抗い続けた過去に決着をつけることができたなら、その時君に、偽らぬ想いを伝えよう ――― 。

      ただ今は、もうしばらくの間でいい、
      こうして傍にいてほしい……

 希みはまた、言葉にはならなくて。
 でも、何も言わずにいても、判り合えている気がした。
 今夜だけは、そんな甘い幻夢(ゆめ)に身を委ねることを自分に赦して、クライヴは瞳(め)を閉じた。
 それが錯覚ではないことも、互いに抱(いだ)く愛しさも知らないまま、ふたりの間にこの夜生まれた強い絆を、ひそやかな光を紡ぐ月が静かに見守っていた。

fin.

2004,05,03
初出(コピー誌「Primal」に収録) 2001,08,12

※イラストは、コピー誌収録時に南侑里さまに描いていただいたものです

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