one

 ガシャンッ!
 部屋を辞そうとした瞬間耳に飛び込んできた鋭い破壊音に、天使は何事かと足を止める。
 振り返ると、不自然に位置のずれたテーブルと粉々になった水差し。
 その先に ――― 。
「! ……クライヴ!?」
 先刻まで普通に話をしていた彼女の勇者が、蒼白な顔で床にうずくまっている。
 急いで駆け戻ると、クライヴは片手で辛うじて身体を支え、もう一方の手で掻き毟るように胸を押さえていた。
 すぐ隣に膝を突いたアリアは、偶然触れた彼の手の冷たさに言葉を失くす。
 彼特有の発作だと思い至るが、打つ手がない。
 けれど、切れ切れに聞こえる呻き声と苦悶の表情を和らげたくて、アリアは細い腕でクライヴを包み込んだ。
「……放せ、…アリア……ッ」
 荒い呼吸の狭間の、激しい拒絶。
 こんな時でさえ、彼は一人であろうとする。
 それが辛かった。
 込み上げてくる涙を堪える為にぎゅっと目を閉じたまま、何度も頭(かぶり)を振る。
 放ってなんかおけなかった。
 彼の苦痛を癒す、術(すべ)など何も持たなくても。
 祝福も回復魔法も、闇の血による発作には効果がない。
 それでも ――― 。
 氷のような手を、身体を、少しでも温めたくて。
 両腕と、そして翼で。
 アリアは全てから護るように、クライヴを強く抱きしめた。

「アリア。…アリア!」
 名前を呼ぶ心なしかきつい声音に、目を開けた。
 時間の感覚が微妙に狂っていたが、あれからさほど経過してはいないのだろう。窓の向こうにはまだ、夜の静寂が広がっていた。
「もう平気だ」
 だから離れろ。
 言外にそう言われているのに気が付いて、やっと、強張っていた腕を放す。
 まるで天使を振りほどくような形で、クライヴは自力で立ち上がった。
 逆にアリアはそれを見た途端、身体中の力が抜けて座り込んでしまった。
「………」
 動悸がなかなか治まらない。
 浅い息を繰り返す。
 震えが、止まらない。

      彼がもし地上から、
      自分の前から、いなくなってしまったら…。

 そう思っただけで、心がまた、すぅっと冷たくなっていく。
 “死”はいつだって、とても哀しい。
 でも、誰かの生命(いのち)が失われることを“怖い”と感じたのは、これが初めてだった。
 震える指先を握り締め、天使は不安げな面持ちのままクライヴを見上げた。
「クライヴ、あなたは…」
「もう、時間がない…。
 いずれ奴の言う通り、俺はこの血に屈するのだろう……」
 淡白な口調は、諦観より深い絶望を感じさせた。
 自棄的に続く言葉に、アリアはそのまま彼の顔を見ていることができず僅かに項垂れた。
「俺の血は奴の血だ。いくら流れようと構わん。
 だが、必ず奴を殺して、終わりにしてみせる…」
「………」
 その“終わり”とは、何ですか…?
 聞こうとして、返ってくる答えがあまりにも簡単に予測ができて、言えずに唇を固く結んだ。
 アンデッドへの復讐と死。それ以外の未来を思い描くこともできないほどに、彼の心は激し過ぎる怒りと孤独に侵されてしまっている。
 分かっていて、何も、できずにいる。
 初めて逢った時から、既に一年以上が経っているのに。
 少しも、……救えずにいる。
 改めて思い知らされた自分の無力さが、歯がゆくて仕方なかった。
 でも。
 逃げないと、決めたから。
 最初に出逢った、あの夜に。何があっても助けたいと思った。その気持ちは大きくなることはあっても、失くなることは決してないから…。
「……死が、あなたの望みであることは、…知っています。
 ですが私はあなたに、……生きていてほしいんです」
 生きること自体が、今の彼には苦しみなのだとしても。
 抱える辛苦の全てを乗り越えて、いつか、幸せに微笑ってほしい。

      ―― それは、私の我侭ですか…?

「勇者なら他にもいるだろう」
「けど…っ、あなたは、……ひとりです。代わりなんていない。
 私にとってあなたは確かに“勇者”です。だけどそれだけじゃなく、ただひとりの“クライヴ・セイングレント”なんです」
 必死にクライヴを見つめるアリアに、彼は応えることなく視線を逸らす。
 届かず宙に浮いた言葉が、ふたりの隔たりの間に降りた沈黙を更に重くしている気がした。
 停滞する張り詰めた無音の中で天使を一瞥したクライヴは、やがて表情を変えることなく口を開いた。
「俺には関係ない」
 この血も背負う宿命も、お前には関係ない。
 そう、言われているようだった。
 肩を落として、瞳を閉じる。
 胸の奥が、次第に鈍い痛みに襲われていく。
 でもそれが、勝手な感傷なのも事実で。
 哀しいけれど、
 自分が抱(いだ)く思慕など、彼には全く与り知らぬものなのだから…。
「……いつまで座り込んでいる気だ?」
 多少呆れ混じりの溜息と声が、頭上から降ってくる。
 クライヴのことになると、つい感情的になってしまう。そしてそれは結局、迷惑にしかなっていない。
 軽い自己嫌悪に陥りつつ顔を上げたアリアは、だがそこでふ…っと笑みを浮かべた。
「クライヴ…」
 ―― 識らなかった。
 無表情で無造作で。なのに、
 愛する人が自分に向けてくれた手が、こんなにも嬉しいなんて。
「…すみません」
 意外にもしっかり手を引かれて、立ち上がる。
 触れた指の確かな温もりに、心の底からほっとした。
 本当は、やさしい人なのだと思う。
 それを上手く表わす方法を、きっと知らずにいるだけで。
 気付かれないように、アリアは伏し目がちに小さく微笑む。
 そんな彼女の心の内を知るはずもないクライヴは、不意に天使に背を向けた。
「クライヴ?」
「ハンターの仕事がある」
「………。
 一緒に、行ってもいいですか?」
 あんな発作の直後でアンデッド退治など無茶にしか聞こえなかったが、止めても無駄なのは明白だった。
 しかし当の本人は、絶対に引き止められると思っていたのだろう。一度無視しかけた後で一瞬間を置くと、クライヴは同行を申し出た彼女をやや怪訝そうに見返した。
「……勝手にしろ」
 それだけ告げると、返事を待つこともせず、彼は再び扉へと向う。
 その背中を見つめながら、
「はい」
 はっきりと、そう答えて。

 できることはとても限られているけれど、
 それでも、たったひとりのあなたを、―― 護りたい。

 自分の弱さに、そしてクライヴの死を望む思いの強さに、負けてしまわぬように。
 ひとつの大切な決意と伴にアリアは翼を広げた。

fin.

2002,09,22

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