微かに耳を掠めた明るい唄声に、クライヴはふと目を上げた。
人間(ひと)として再び地上に降りてきてから、アリアは意外にも手慣れた様子で、毎日楽しそうに家事をしている。
以前は殺風景そのものだったこの家も、彼女らしいさりげない気配りで、今では見違えるほど居心地の良い空間になっていた。
「クライヴ、お茶を淹れますね」
居間に戻ってきたアリアは、にこやかに微笑む。
しかしクライヴは翳りを含む眼差しで、彼の天使の手を取った。
翼があった頃、白磁のようだった指や甲には、僅かの間にたくさんのあかぎれができていた。
「……荒れてしまったな…」
「大丈夫ですよ。そんなに痛くないし…。
それにしばらくしたら、水仕事にも慣れると思いますから」
「………」
「―― お茶、淹れてきますね」
アリアはそっと手を引くと、少し淋しげに微笑って背を向ける。
すぐに追い掛けるべきなのに、身体が動かなかった。
彼女は、観賞用の綺麗な人形ではない。行き過ぎた一方的な庇護欲は、その意思を否定することになる。
現にあの沈黙は、きっと彼女を傷つけた。
「アリア…」
目を閉じて、ざわついている心を鎮める。
一緒に生きていこうという言葉に頷いてくれた時の笑顔を思い出すと、クライヴは迷いを振り切るように立ち上がった。
キッチンに入り、足音に気付いて小さく震えた肩を、後ろから静かに抱きしめる。
髪に軽く唇を当てると、ポットに入れようとしていた茶葉が零れてふわりと香った。
「すまない…」
「…私も、ちゃんと話をしないで、逃げてしまってごめんなさい。
……あの、心配してもらえるのは嬉しいです。でも…」
「ああ。何もかも君から遠ざければいいという考え方は、……馬鹿げているな」
感情も経験も、日々を過ごす為のささやかな知識さえ、ごく限られたものにしか触れてこなかった。特に養父母を失くした後は、寧ろ敢えて、戦い以外を切り捨ててきた。
天使と出逢い、―― 初めて誰かを愛して…、生きることを希むようになってから、
気付いていく世界は拡く、そして時折、戸惑いを覚えるほどに複雑で…。
「普通の生活とは案外、難しいものだな…」
思わず呟くと、アリアはゆっくりと振り返る。
見つめ返した空の色は何処までもやさしく、揺らぐ心ごと、甘く包まれていく気がした。
「私もまだ、分からないこと、知らないことがたくさんあります。
これからふたりで、ひとつずつ、答えを探していきませんか…?」
「そうだな…」
無知を正直に認めるには、
時に少し、強い意志(きもち)がいるけれど。
不器用でも情けなくても。
今は、
有りのまま受け止めて、伴に歩いてくれる君がいるから…。
「アリア、…俺に、紅茶の淹れ方を教えてくれるか?」
「はい」
嬉しそうな横顔に、腕をほどいて隣に並ぶ。
ふたりで、まずはどちらからともなく散らばった葉を拾い集めると、また仄かな香りが漂う。
先刻までの重い苦味は、そこに淡く溶けて消えて。
自然に互いの瞳を合わせると、
それだけで、
いつのまにか胸の内(なか)にも、その香気に似た、やわらかな幸せ(おもい)が満ちていくようだった。
fin.
2008,08,14
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