oyasumi

「乾杯」
 硝子の重なる、心地好い音が響く。
 肩が触れるほどすぐ傍で、つい一日前には純白の両翼を持つ天の遣いだった少女が、嬉しそうにグラスを傾ける。無邪気な横顔を微笑ましい気持ちで眺めながら、クライヴも久しぶりのアルコールを口に運んだ。
 彼女に合わせて選んだ薄香色の果実酒は思ったよりすっきりとした甘さで、果物の自然な香りがした。
 天使と勇者。―― それが昨日までのふたりの、対外的な関係だった。
 アリアが地上に生きる一人の人間として再び彼の前に降り立ったのは、昨夜のこと。
 しかしクライヴがかつて師と住んでいたこの家には、仕事の都合上ほとんど“家”の役割を果たしていなかったこともあり、彼らが二人で暮らしていくのに必要な物が足りな過ぎた。
 それらを揃える為に街に出た帰りだった。

   お祝いしませんか?

 唐突に、アリアはそう提案した。
 何の、と彼女は言わなかったし、彼も聞かなかった。
 自分がもう闇の住人ではないこと。彼女が手の届かない天上の存在ではなくなったこと。これからの日々をずっとふたりで過ごしていけること。
 それを心から実感できたのは、今日、午後の陽射しの中を彼女と歩いている時だった。
 以前は、叶うはずのない願望(ゆめ)だと思っていた。
 そういえば、地上に残ってほしいと想いを告げた後で、呟くように彼女が言っていたことがある。

   天使なのだから…。

   伝えることはできない。気付かれてもいけないって、
   そう…思っていたんです。

 ―― そうやって互いを縛ってきた、軛も今は何処にもない。
 だからこれは、ふたりだけのささやかな祝宴だ。
 一口喉を潤して、ふふっと、少し子供っぽい瞳でアリアは微笑った。
「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです。
 私、地上のことには結構詳しいつもりだったんですけど、ちゃんと自分の足で歩いたり実際に手に取ったりしないと、判らないことってたくさんあるんですね」
「それは俺もだな…。君に逢うまで、世界に興味など全くなかった。
 今日、改めて知ったことがたくさんある」
 偽る処のない、それが彼の正直な思いだった。
 驚いたようにこちらを見ているアリアに、クライヴは若干照れたように笑い返す。
 そして満面の笑顔になった彼女と、どちらからともなく再度、グラスを重ね合わせた。
 誰にも、何にも気兼ねすることなく、同じ時間を共有する。贅沢とも思える宵のひととき。
 それが、小一時間ほど過ぎた頃だろうか。
 クライヴの何気ない言葉に対する彼女の反応に、不自然な間が開いた。
 手にしたグラスをテーブルに置いて、隣を見遣る。
 アリアの頬にはいつのまにか赤味が差していた。目も、何処となくぼんやりと焦点が合っていない。
 彼女は一杯目で、それもまだ飲み切ってはいない。
 さしてアルコール度数の高い酒でもない。嗜む程度には飲めると言っていたのだが…。
「アリア、大丈夫か?」
「…え? あ…、少し、身体がふわふわしてるみたい…。
 ちょっとお水、飲んできますね」
 危ないから急に立つな。言いかけたが、彼の忠告は僅かに遅かった。
 アリアはそのまま、力なく床に座り込んでしまう。
 だが本人はどうも、状況が把握できていないらしい。再び立ち上がろうとするのを、クライヴはやんわりと制した。
「怪我はないか?」
「はい…」
 華奢な腕を支え、静かにソファーに座らせる。
 触れた頬とその手にかかる息が熱かった。
「今、水を持ってくる」
 ゆっくりと彼女の首が縦に振られる。それを見届けてから、リビングを離れた。
 が、彼が冷たい水を持って戻ってきた時には、ソファーに横になったアリアは既に眠り込んでいた。
 起こしてしまわないよう、充分に気を付けながら抱き上げる。
 額が肩に当たる。
 耳に届く寝息は、なんだか自分の鼓動より近くにあるようで。
 そこでやっとクライヴは、昨夜から彼女に対して感じていた違和感に良く似た感覚の理由に気が付いた。
 翼のない彼女は、酷く無防備に見えた。ふと浮かべる表情も、仕種も。

      ずっと、気を張り詰めていたんだな…。

 地上の守護者であるという自分の立場に。
 どんな時でもきっと、無意識のうちに緊張を強いられてきたのだ。
 天使だった頃と変わらない軽い身体を、ふたりで眠るには多少手狭なベッドに寝かせる。
 どうやらさほど深い眠りではなかったらしい。小さく寝返りを打った拍子に、彼女は薄く目を開けた。
「ん…」
「気分が悪くはないか?」
 背を屈めて、やさしく尋ねる。
 うたた寝から覚めたアリアは、やや極まり悪そうに頷いた。
「私、眠っちゃったんですね。……ごめんなさい」
「昼間、あちこち歩き回ったからな。疲れで酔いが早く回ったんだろう。
 今日はもう、休んだ方がいい」
 髪を撫でる。
 瞬きと、微かな吐息。そうして彼女は、ベッドの端に置かれたクライヴの手に自らの手を添えた。
「勇者とか天使とか、戦いのこととか…。そういうことを全然考えずにクライヴの傍にいられるのがすごくすごく嬉しくて、……今日はちょっと、はしゃぎすぎちゃったみたいです」
「ああ、…俺も、楽しかった」
 ふわっと広がったやわらかな笑顔に軽くキスをする。
 その瞬間、重ねた唇から果実酒の仄かに甘い香りを感じた。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
 考えてみれば、彼女とこんな言葉を交わしたこともなかった。
 ほんの数日前までは、自分が眠りにつくのは他の者が活動を開始する時間だった。

      ―― それを君が、変えてくれた。

 苦痛しか生み出さない怒りと恐怖が消えて。昔知っていた、温かな感情を思い出す。
 狂気に支配された昏い闇の代わりに、胸に灯るやさしい光。
 言い尽くせない愛しさと、感謝と。
 どうすれば今心にある想いの全てを、伝えきれるだろう…?
 愛していると、昨夜も何度も、口にしたけれど。
 それだけではとても、足りない気がした。
「アリア…」
 だからせめて、
 翼と伴に故郷も失くした彼女にとって自分が、安らげる存在(ばしょ)になれるように……。
 安心しきった寝顔を見つめ、もう一度、触れるだけのキスをして。

   おやすみ…

 クライヴは確かめるようにまた、恋人の耳元にそっと囁いた。

fin.

2002,06,10

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