Pleasure

 寝室のドアを開けると、窓辺に立ったアリアがじっと空を眺めていた。
 その横顔に思わず、ノブに手を掛けたまま足を止める。
 かつてこの地上を守護していた天使が翼を捨ててから、既に一年と数ヶ月が過ぎた。
 なのに今も、こんな場面を目にするたびに、一瞬だがどきりとしてしまう。
 しかしそれは彼女への不信ではなく、一種の条件反射だと判っている。
 贅沢な痛みだな、と心の中、一人呟く。
 けれど笑顔で振り向いたアリアにそんな思いを覚られてしまわぬよう、クライヴはできるだけ音を立てずにドアを閉めた。
「さっき、雨から雪に変わったんです」
「道理で、冷え込んでいるな」
「明日の朝にはきっと、一面真っ白ですね」
 雪景色など疾うに見慣れているはずなのに、まるで幼い子供のように楽しげなアリアに、穏やかに微笑い返す。
 おそらく、白く曇る窓を何度も拭いては、変わっていく空模様を見ていたのだろう。何気なく触れた指先は、結露で濡れて酷く冷たくなっていた。
 そのことに、彼女自身もやっと気付いたらしい。
「…あ、あの、ごめんなさい。クライヴの手も濡れちゃいますから…」
 アリアは慌てて言い、身体ごと彼から離れようとする。
 だがそれに、
「構わない」
 一言、そう答えて。
 自分の体温を移して温めるように、クライヴはしっかりと、小さな手を繋ぎ直した。
 俯いてしまったアリアを静かに抱きしめると、ごく短い間を置いて、重ねた細い指にも微かに力がこもる。
 その直後だった。
「……クライヴ…」
 不意にアリアが、真剣な眼差しで彼を見上げる。
 何かあったのかと瞳で尋ねると、僅かな逡巡の後で、彼女はもう一度視線を上げた。
「…少し、屈んでくれますか?」
「………」
 普段彼女は、こういった脈絡のない言動はしない。
 かなり唐突な願いに驚いたものの、相変わらずの必死な様子に、とりあえず背を屈める。
 そして、
 どうした? ―― 今度は言葉にしようとした問いは、ゆっくりと背伸びをしたアリアの唇の温もりに溶けて消えていく。
 疑問を感じないわけではなかった。
 ただ、やさしく触れ合うだけのキスは、それでも眩暈がするほどに甘くて、クライヴはそのまま瞳(め)を閉じた。
 永いような短いような、不思議な時間が通り過ぎる。
 唇が離れても、やわらかな温もりの余韻に、互いに何も言い出せずに見つめ合って。
 やがて、ふたり同時に零れた吐息で、時はまた緩やかに動き始めた。
「…良かった。今年も、私が一番ですね」
「?」
 急に恥ずかしくなったのか、やや頬を染めてアリアが微笑む。
 彼女に笑顔が戻ったことには安堵したが、一連の言動の意味はやはり判らない。
 クライヴは戸惑いを覚えつつ、まず何から聞けばいいのかを思案した。
 それが表情にも表れていたのだろう。アリアはアリアで、そんな彼の反応にきょとんとしている。
 再度、双方ともに無言で、顔を見合わせる。
 しばらくして、微妙な沈黙を打ち消すようにアリアが小さく笑い出した。
「……ごめんなさい。私が最初に、ちゃんと言わなかったのがいけないんですね。
 ―― クライヴ、誕生日おめでとうございます」
「………。
 ……そうか。もう十六日、か…」
「はい」
 ようやく先刻の、彼女にしては大胆な行動にも納得が行く。
 じんわりと歓びが全身に伝わっていくのを感じながら、クライヴは彼女のくれた祝福の言葉を心で繰り返した。
「…すっかり忘れていたな。
 君の誕生日なら、よく覚えているんだが…」
「そうやって、お互いに覚えていればいいですね」
 嬉しそうにアリアが微笑う。
 再びその背中を引き寄せて、ふわりと腕の中に包み込んだ。

      もし君に出逢えずにいたら、
      俺はどんな風に、二五度目の“今日”を迎えていたのだろう…?

 迫り来る冷たく昏い闇に苛まれ、ずっと、忌むべき日だと思い込んできた。
 そんなことさえ今はもう、過ぎ去った、遠い昔の記憶でしかない。

      こうしてすぐ傍に、愛しい存在(きみ)がいて。
      “おめでとう”と言ってくれることが、
      今日を、大切な一日へと変えていくから ――― 。

 無邪気な笑顔を見つめて、額に軽く唇で触れる。
 そして、言葉にならない“ありがとう”を伝える為に、クライヴは彼の天使をそっと抱き上げた。

fin.

2003,02,16

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