Primal

      翼より魔法より、
      永く続く生命(じかん)より、

      あなたの傍にいたかった。

      ―― ただ、それだけのこと。

「あの、クライヴ、…腕を組んでもいいですか?」
 はにかむようにこちらを見上げる、空の色の瞳。
 既に幾度も夜を伴にしているのに、丁寧な口調と同様に、そんなあどけない仕種は、彼女が天界の使者であった頃と変わらない。
 地上の人間となった彼女と過ごした初めての冬を思い、移り変わっていく季節を感じて軽く感慨にふける。
 けれど隣にいた恋人には、それが拒否と映ったのかもしれない。
「……駄目、ですか…?」
 小声で呟き、心なしかしゅんとしてしまったアリアの髪にそっと手を遣る。意図が掴めず首を傾げた彼女に、クライヴは静かに微笑った。
「いや、そんなことはない。行こう」
「…はい!」
 一瞬の間を置いて、アリアは嬉しそうに顔を綻ばせる。そして、ふわっと腕を絡ませた。

 辺境の遅く短い春を祝う、ささやかな祭り。
 毎年行われていることを知ってはいたが、実際に訪れるのはクライヴも初めてだった。
 以前は陽の射す中を、満足に歩くこともできなかった。だが理由はそれだけではなく、そもそも今までは、こういった催事に興味を持つこと自体がなかった。
 しかし先日偶然にもその開催を耳にした彼は、生涯無縁だと思っていた祝祭に、自ら、一緒に暮らす大切な少女を誘った。
 大国のような華美さはないものの、素朴で温かな祭りを、彼女ならきっと気に入るだろう、と。
 案の定、通りに飾られた色とりどりの花々や立ち並ぶ店に瞳を輝かせて見入っているアリアの様子に、クライヴは小さな笑みを漏らした。
「―― 君は、変わらないな」
「……そうですか?
 クライヴは、…なんだか以前とは少し、変わったような気がします。初めて会った時には、話の途中で突然、帰ってしまったのに…」
「………。あれはすまなかったと、…思っている」
 意外な切り返しに、彼はまともに返答に詰まってしまう。滅多に見ることのできない恋人の困り顔に、元天使の少女はくすくすと笑っていた。
 それからアリアは不意にクライヴと正面から向かい合うようにして足を止めると、まっすぐに彼を見つめた。
「でもクライヴ、……私すごく、変わったんです。
 昔は、こんな風に誰かを愛しいと思うことも、傍にいたいと願う気持ちも、知らなかった…。
 だから私、クライヴと出逢えて本当に…、良かったです」
「―――」
 雲一つない空より、鮮やかな笑顔。透き通るような眩しさに、瞬間、クライヴは言葉を失った。
 街中でなければ、強く抱きしめていたかもしれない。
 澱んだ闇の影を払い手を差し伸べてくれた天使は、地上に身を置いてもなお、清麗で有り続けている。
 そして逆光が視せる、舞い降りる白い羽根の幻にふと、彼女がこのまま天に連れ戻されたとしても、何の不思議もない気がした。
 けれどアリアはそんな一抹の憂慮を消し去る明るい声で、通りの向こうを指差した。
「あちらでパレードが始まるみたいですね。もっと近くに行ってみませんか?」
「……ああ」
 自分にしか向けられることのないやわらかな眼差しに、ほんの少しだけ甘えるように、アリアは再び彼の手を取る。
 並んで歩き始めながら、クライヴは彼女とこうしていられる奇跡を、改めて思い返していた。
 笑いさざめきながら行き交う人波の中に、この世界が彼女によって護られたことを知る者はない。
 今それを示すものは、自らの記憶と、初めて愛する存在(ひと)を腕に抱いて眠った夜に見付けた、純白の翼の名残りのみだ。
 だが彼がその一対の傷を、口にしたことはない。
 それが自分の希んだ結果なのだと、痛いほど分かっていたから。
 彼女の、追懐によって曇ることのない明眸が、幸せそうな微笑みが、罪の意識さえも癒してくれるから ――― 。
 本当は、アリアも気付いている。
 背中に触れる指先や唇が、いつも、切なくなるくらいにやさしい訳も全て…。
 しかしこれまで彼女から、その話を切り出すこともなかった。

      ―― だって、識っているでしょう…?

      あなたはアルカヤ(ここ)にしかいない。
      だから、私はこの地上(ここ)にいると……。

 問題は、何が失われたかではなくて。互いがどんな未来を欲していたか、でしかない。
 それが重なり合ったからこそ、こうやって同じ時間を過ごしている。
 単純で、でも、それが何より大切なこと。
 世界を悪魔の手から救いし天使と勇者の物語が、かつてのように、伝説として人々に語り継がれることはなくても。
 誰が知らずにいてもいい。自分が、忘れずにいさえすれば。
 過去を何一つ衒うことなく、今は地上に生きる天使が見せる満面の笑顔に、クライヴもまた、穏やかに笑みを返した。

 誰より愛おしい少女(ひと)の背に残された、消えることのない翼の痕跡(あと)。
 それは敢えて言葉にせずに、それぞれが心の一番奥に閉じ込めた、

      ふたりだけの、
      ―― 甘く、そしてやさしい秘密。

fin.

2004,07,27
初出(コピー誌「Primal」に収録) 2001,08,12

※イラストは、コピー誌収録時に南侑里さまに描いていただいたものです

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