Promise

 妖精の勧めもあり、堕天使との決戦前に休息をとることにした、ドライハウプ湖のすぐ手前の町。
 その宿の一室で、ずっと、ふたりとも黙り込んでいる。
 空の色が徐々に変わり始めて、もうすぐ、夜が明ける。
 自分も天界に戻って力を回復させ、万全の状態で最後の戦いに臨まなければならない。
 …なのに……。

   明日また来ます。
   ゆっくり休んでくださいね。

 ただ、それだけの言葉が言えない。

 何故か判らないけれど、離れがたくて。
 でもそれは不安とか、たぶん、そういうことじゃなくて。
 曖昧な、けれど欲望にも似た強い衝動。

 心を静める為に瞳を閉じる。
 頬に添えられた手を感じて目を開けると、一瞬、唇を重ねられた。
 見上げた紫紺の双眸の中に、自分と同じ感情(きもち)を見付ける。
 幾度かの、やわらかなキス。
 それが深くなりかけ、歯止めがきかなくなりそうな予感に身体が震える。
 そのことが、拒絶と受け取られたのかもしれない。
 次のキスは唇を僅かに掠めただけで、ふっと、頬を包んでいた手も遠ざかる。

 背を向けて窓の向こうを眺めている、後ろ姿。
 そこにもう、かつての闇の匂いはなく。
 感じるのは、誰より強く眩い魂(こころ)。

 見つめていると、微かに、眩暈がした。
 自覚してしまえば、理由なんて簡単で。

      触れたいから。

      触れてほしいから。

 でも、今はまだ…。

 求められても、応えることは赦されない。
 互いに望んでいたとしても。
 この身に天から与えられた、翼のある限り。

 向けられた背中は、怒りではなく。
 自分を抑える為の、
 愛する天使(ひと)を傷つけたくないと思う、彼のやさしさ。

 それが愛おしくて、……切なくて。
 手のひらと額を、そっと…その背に当てた。

 共有する、ささやかな温もり。

      あいしてる

 伝わる…?

「明日」

      ……待っていてくれる?

 ――― もう少しだけ。

「また、来ます。
 ゆっくり休んでくださいね、クライヴ」

「……ああ。君もな」
「はい」

 ごめんなさい。
 そう思う。
 でも、口にしたらきっと、……怒るでしょう?
 だから、言わないけれど。

「アリア」

 振り向くと、いつのまにかクライヴも窓辺に立っていた。
 何ですか? 問う前に、先刻彼の背中に触れていた指にやさしく口付けられて。
 想いがちゃんと、伝わっているのが判った。

 返事の代わりに微笑む。
 そして翼を広げ、
 今の自分が、在るべき場所へと飛び立った。

 ……識ってる…?
 まるで、大切なもののように名前を呼んでくれる。その瞬間が、大好きなこと。

   君のおかげだ

 以前、そう言ってくれたけれど。
 逆にあなたに、新しい感情(きもち)をたくさん教えてもらったこと。

 夜明け前の空を飛ぶのはたぶん、これが最後。
 “天使”として全ての戦いを、この地上を護る役目を終えたら。
 誰の赦しを得られなくても。たとえ自分で、両方の翼を切り捨ててでも。
 あなたの生きる世界に、舞い降りていくから。

 あと少しだけ、待っていて ――― 。

fin.

2002,04,29

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