天使がクライヴの滞在する宿を訪れた時、空には朝焼けの光が広がり始めていた。
どうやら、時差を少々読み違えてしまったらしい。
仕方なく、今夜改めて来ようと気を取り直し、同行を頼んでいるシータスに一声掛ける。
そのまま天界に帰ろうとしたアリアを、妖精が遠慮がちに呼び止めた。
ここ一週間、クライヴは毎日ハンターの仕事に出ており、傍目から見てかなり疲労が溜まってきている。天使の勇者としての任務の為ではないが、できたら『祝福』を掛けてほしい、と。
勇者の潜在能力を高める祝福は、睡眠中は主に、自己回復力に対して効果を発揮する。
しかし天使は即諾せず、表情に躊躇いを滲ませた。
普段の彼女は、こういったことを無下に扱ったりはしない。逡巡にはそれなりの理由があった。
「でも…」
「天使様?」
「起こしてしまって、却って疲れさせてしまわないでしょうか…?」
以前任務地まで同行した際、就寝時に天使が近くにいることに、クライヴは明らかに不快感を示していた。
はっきりと言われたわけではないが、職業柄気配に敏感なことが関係しているのだろう。
だから彼が眠っている時には、仮に何かあってもすぐに察知でき、駆け付けられるぎりぎりの距離を置いて、待機するようにしていた。
もしかしたら、部屋に入った時点で目を覚まし、不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。
そう懸念していたのだが、シータスは大丈夫だとあっさり断言する。
天使よりも長く勇者と行動を伴にしている妖精の言葉を信じ、アリアはほんの少し迷いを残しながらも頷いた。
転移魔法で室内へと入る。そしてやや及び腰でベッドを見遣ったが、彼女の心配は単なる杞憂に終わった。
天使が現れてからしばらくしても、規則正しい寝息に変化はない。
それを確かめたアリアはようやく緊張を解き、静かに深呼吸をしつつ胸を撫で下ろした。
落ち着いてもう一度目を向けると、クライヴは敵の不意打ちに備える為か、愛用の刀を抱えて眠っている。
とはいえ寝顔は、そんな殺伐とした状況に反して…。
―― かわいい…。
などと実際に彼の前で口にしたら、思いきり眉間に皺を寄せて、黙殺されてしまうのだろうけど。
本人も自覚していないのかもしれない。
けれどこの少年の面影を感じさせる寝顔は、間違いなく彼の素の一面なのだと思った。
祝福を掛け始める。
変わらず穏やかな表情を見ていると、なんだかこちらまで嬉しくなる気がした。
正直、彼との関係が上手くいっているのかと聞かれれば、否(いな)と答えざるを得ない。
七人の勇者の中で一番、コミュニケーションに苦慮している相手だと言っても過言ではないだろう。
それでも…。
私はあなたに仇なす者ではないと、
たとえ意識はしていなくても、
それだけは、
信用してくれている。
そう、思ってもいいのでしょうか…?
胸にふんわりと、ほのかに甘い光が灯る。
クライヴが昼夜逆転の生活をしているのには、おそらく血 ―― 出生が深く係わっている。
初めて会った時に感じた恐れも、同じものに起因しているのだろう。
だが、そのことに最も苦しんでいるのは、他ならぬ彼自身だ。
それも最初から、分かっていたはずなのに…。
何処かで拭い去れていなかった恐怖心が、互いの心を更に隔ててしまっていた。
だけど、きっともう、
あなたを怖いと思うことはないから。
少しずつでも、
本当のあなたを識っていきたいから…。
既にそれは、天使が勇者に向けた想いとは呼べないものだった。
ただ彼女が、気が付く日(とき)はまだ遠く ――― 。
博愛の中に眠る、特別な愛しさ。
名前さえ知らぬまま、けれど何故かいま自分が感じているとても幸せな感情(きもち)に、アリアは思わずそっと微笑んだ。
fin.
2005,06,10
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