紫紺の瞳に宿る昏く激しい怒りが、
死を望む生命(いのち)を、この地上に繋ぎ止めている。
けれどその感情こそが、いつかあなたを、
壊してしまいそうな気がして ――― 。 ☆
「どうか、怒りを鎮めてください…。そんな感情だけでは、……何も解決できません…」
……違う。
こんなことが言いたいんじゃない。
上滑りの『忠告』なんて、今は欠片ほどの意味も持たない。
だけど、どう伝えればいい?
どうすれば……。
微かに震える天使の諌めに、クライヴは鋭く冷たい視線を向けた。
「……何が分かる…。君に…」
「………」
そう、あなたが酷く、…苦しんでいるのに。
どうしたらいいのか分からない。
無力さは、両翼や魔法では補えなくて…。
「―― 分かり、ません…」
口を衝いた掠れた呟きは、強い風に掻き消されていく。
気が付くと、もどかしさに引き摺られるように叫んでいた。
「……分からない、…から、だから私は、…あなたのことを分かりたいんです…っ!」
「…アリア?」
クライヴが、不快よりも驚きに近い表情になって天使を見返す。
そこで我に返ったアリアは、瞳を逸らして俯いた。
顔を上げることもできずに、真冬の凍寒にも似た静寂が辺りを包む。
「……ごめんなさい…。失礼、します…」
居たたまれずに、辛うじて小声で詫びると翼を広げた。
天界に戻るとラファエルへの報告もせずに、ラキア宮の自室に駆け込む。
扉を閉めた途端抑えていた涙が溢れてきて、崩れるように床にしゃがみこんだ。
各々深刻な事情を抱えながらも、戦いに赴いてくれる勇者達。彼らの苦衷を思えば、地上を護る命(めい)を受けた天使が容易く泣くわけにはいかない。
それは、自分で決めたことなのに…。
「…ど……して…?」
胸の中でクライヴの一言だけが否応なしに繰り返されて、次々に新たな涙が出てきてしまう。
初めて感じる、心も身体も、全てを支配してしまう痛み。
いつしか自問も、止め処なく零れる雫に消えて。
答えを見付けられないまま、アリアは嗚咽を堪え、泣き続けることしかできなかった。
三日後、気まずさを押し殺してラグニッツ近くの村を訪れると、クライヴはちょうど剣の修行を始める処だった。
ちらりと投げられた眉を顰(しか)めた一瞥に怯みかけたが、ここで逃げ出しては、彼との関係は悪化の一途を辿ってしまう。
アリアは努めて、いつものように微笑んだ。
「こんばんは、クライヴ」
「…何だ?」
不機嫌さを顕わにした声音ではあったが、どうやら話は聞いてもらえるらしい。
最悪門前払いも覚悟していただけにまずは安堵した。
「……この前はすみませんでした…」
「………」
天使の謝罪に対し、クライヴは無言だった。目も、相変わらず合わせようとはしていない。
……何が分かる…
君に…
耳の奥に返ってくる声は、辺境の冬の北風よりも冷たく響いて。
また、泣きたいような気持ちになる。
けれど……。
レイブンルフトとの係わりは、彼の苦しみの根源であり、同時に皮肉にも、死を願いながら生きていく理由になっている。
そのことをいつのまにか、理解しているつもりになっていたのかもしれない。
あの一言で、実際には、心はまだこれほどに遠いのだと痛感させられた。
「―― でも」
そこにも偽りなく、確かに在るのは…。
「あなたのことを少しずつでも、分かっていきたい。
そう思っているのは、……本当です」
ゆっくりと、有りのままの胸の内を言葉にしてしまってから、…気付く。
それが、天使としての感情(おもい)ではないことに。
痛みも涙も、全て、彼が“特別”であるが故だったのだと…。
きっと、出逢った瞬間(とき)から惹かれていた。
ただその名をずっと、識らないまま ――― 。
「……アリア…」
澄んだひたむきな眼差しに、戸惑いを含んだ表情(かお)で、クライヴはようやく目の前にいる少女を見る。
彼の瞳の奥底に絶えずある激情が、一瞬、微かにではあるが和らいだ気がした。
そうして魂(こころ)の、……一番深いところで触れ合えたような、束の間の錯覚。
しかしふたりの間に降りかけた微妙な沈黙は、上空から突如聞こえたトーンの高い声によって霧散した。
「天使様、事件ですぅ!」
「…フロリンダ?」
「エクレシアに続く街道に変な怪物が現れて、通る人達を襲ってるみたいです。勇者様にお願いしてください!」
「はい、分かりました」
やや反応が遅れたものの、妖精の報告にアリアはすぐに天使の顔に戻った。詳しい話を聞きながら、ここに来る前に確認しておいたアルカヤの状況を思い出す。
「―― その事件は俺が引き受ける」
「…えっ?」
不意に耳に届いた、淡々とした低い声。
だが、パートナーに労いの言葉を掛けていた彼女が虚を衝かれて振り向いた時にはもう、長身の背中はそこから消えていた。
咄嗟に思考が追い付かず半ば呆然としてしまったが、しばらくしてそれが微苦笑に変わる。
肩を竦めるような吐息の後、今度は大きく息を吸った。
「あの、…クライヴ! 一度天界に戻ってから、改めて伺いますね」
呼び掛ける天使に、クライヴはふと足を止める。そしてこちらに軽く目を遣ると、ああ、という非常に簡潔な返答を残して再び、歩き出した。
「………」
絶対に、答えもなく行ってしまうと思っていた。
意外な言動に、アリアはまたも呆気に取られて彼の後ろ姿を見送っていたが、途中でくすくすと笑い出す。
一年前ならたぶん、立ち止まってはくれなかった。
たとえ僅かであっても、以前よりは近づけていると感じられたのが、なんだかとても嬉しかった。
「天使様ぁ? どうしたんですかぁ?」
「…いえ、……何でもないの。
フロリンダはこれから、お休みでしたよね? 一緒に帰りましょうか」
「はぁーい! 天使様、天使様、こないだフロリン、新しい着ぐるみを作ったんです! 見てもらえますかぁ?」
「ええ」
はしゃぐフロリンダと伴に天界へと帰る前に、もう一度アリアは、緑豊かな大地を振り返る。
―― たったひとりの、特別な存在(ひと)。
それは地上の守護者が持つべき感情ではないのかもしれない。
叶うはずのない、伝えられない恋(おもい)。
知っていても今は、大切に抱(いだ)いていたい。何故か強く、そう思った。
自分に、任務として与えられた時間はさほど、長くはない。傍で、いつまでも彼の未来を見守り続けることはできない。
だからせめて、この世界を去る時が来る前に。
願わくは、
凍て付くほどに深い孤独を少しでも、……癒せますように。
闇を厭う心に、光を、灯すことができますように ――― 。
fin.
2005,11,12
初出(コピー誌「Eternal」に収録) 2001,07,07
※イラストは、コピー誌収録時に南侑里さまに描いていただいたものです
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