夜の彷徨

 いつのまにか、薄く掛かっていた雲も消えていた。
 微妙に青みがかった乳白色の花片が、空から降る光を反射しながら風に震えるたびに、清香が仄かに広がる。
 横に並ぶのではなく数歩後ろをついてくるアリアを、クライヴは時折振り返る。
 瞬間重なる瞳と、交わされる短い言葉。
 こんな風にしてふたりはもう十分ほど、月の花の咲き誇る道を歩き続けていた。

 見せたいものがある。
 その夜クライヴの元を訪れた天使に、彼はそう言った。
 時間が許すなら一緒に来てほしい、と。
 もちろんアリアは快諾し、人間(ひと)の姿をとって彼の後に続いた。
 そうしてやって来たのが、海のすぐ傍にある月皓花(げっこうか)の花畑だった。
 一年のこの季節、満月の時期に合わせて咲くという花は、名前が示す通り月の光と同じ色をしていた。
 初めて見る可憐な花達にアリアが思わず笑顔になると、それを見ていたクライヴは安堵したように静かに微笑った。
「昨日宿の主人から聞いたんだが、ここにしか咲かない珍しいものらしい。
 だから、君に見せたかった…」
「ありがとうございます、クライヴ。すごく、…嬉しいです」
「……少し、歩かないか?」
「はい」
 微笑んで答えながらアリアは、心の何処かが鋭く軋むのを感じていた。
 ドライハウプ湖で話をしたあの夜から、クライヴの言動は目に見えて穏やかになった。時には、胸を突くほどやさしい笑顔を見せてくれることもある。
 以前に比べれば格段に、打ち解けてくれているのだと思う。
 彼の苦痛を少しでも軽くすることができたのは、彼女にとっても大きな喜びだった。
 なのに隣にいると、身を切られるような気持ちになる。最近、そんなことが多くなった。
 ―― 理由はきっと、自分の中にある二律背反。
 天界と、そしてインフォスと同様に、アルカヤをとても大事に思っている。
 だからこそ堕天使と天竜を倒し、この地上に早く、真の平穏を取り戻したい。
 だがそれが同時にもたらす決定的な“別離(わかれ)”に自分が少なからず怯えていることを、彼女は既に自覚していた。

   クライヴ…

 声にすれば、迷いが全てそこに表れてしまいそうで。
 アリアは唇の動きだけで、目の前にいる愛する青年(ひと)の名を呟いた。

 手前の道がやや窪んでいることに気が付いて、一度足を止める。
 しかし次の瞬間、
「アリア」
 そっと名前を呼ばれて、ふと目を上げた彼女の瞳に映ったのは、不器用に差し出されたクライヴの右手だった。
「…ありがとう、ございます…」
 微かに視線を落としたまま彼の手に掴まって、足元の段差を越える。
 そのままどちらからともなく再び、歩き出して。
 先刻より僅かに近づいた距離が、分かり合えているようで果てしなく遠い、自分達の関係を表している気がして俯いた。
 それからは会話もなく、ふたりでまた、海辺の道を歩いていく。
 不意に強い潮風が吹く。一面の月皓花がさざめいて儚い芳香を運ぶ。
 密やかに過ぎる香りは、更に天使の心を彷徨わせていくだけだった。
 重ねた指の先から、想いが伝わってしまいそうで、怖くなる。
 それでも、やわらかく触れた手をほどけない。
 息ができないような切なさと紛れもない幸福感が、同じほどに胸の内で揺らいでいた。

      任務を終えたら、私は、
      あなたのいない世界に、戻らなければならないのに。

      一緒にいる時間が増えれば増えていくだけ、
      後から、絶対に辛くなるのに……。

 けれど、逢いたくて。
 こうして傍にいられることを、嬉しいと思ってしまう。
 ―― それは、自分ではもう、どうすることもできない愛しさ。

      あなたが、……好きです。

 募っていく恋情は、“天使”としての領域を遥かに超えてしまっていて。
 言えるはずがないのに。
 あなたを困らせると分かっているのに。
 澄み切った月の光は心の最奥までも照らし出して、想いが、溢れそうになってしまう。

      だから、お願い。
      ―― 振り向かないで。

 今、あの紫の瞳に見つめられたらきっと、隠し通せなくなってしまう。
 たとえ、言葉にしなくても。
 繋いだ手が伝えてくる、残酷なまでにやさしい温もり。
 安らぐようで、でも痛くて。偽り切れないくらい確かに幸せで……、なのに、泣きたくなる。
 矛盾する心を抱いて。
 それを天には祈れずに、夜の闇を溶かしていく満ちた月を見上げて、―― 願う。
 苦しくても構わない。
 相反していく感情に、どれほど胸が締め付けられても。

      今夜は、
      せめてあの月が真上に昇るまでは、

      この人の傍に、いさせてください……。

 そんなひとりの少女の切望を包み込むように、皓月の如き光を放つ花の淡く甘い香りが揺れた。

fin.

2001,11,25

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