午後二時。
本来なら就寝中であるはずのクライヴからの面会希望に、アリアは宿へと急行した。
ラグニッツでレイブンルフトとの最後の闘いを終えたのは、半日前。
激しい戦闘による傷は一つ残らず治せたが、寧ろ気掛かりなのは彼の心の内だった。
援護でかなりの力を消耗した天使を心配する妖精に促されて、後ろ髪を引かれる思いで天界へと戻ったのだが、やはり多少無理をしてでもあのまま同行しているべきだったかもしれない。
クライヴが体調を崩している可能性も考え、念の為転移魔法を使う。
カーテンが引かれ、陽射しが遮断された部屋の中には、辺境の冷気が凝っていた。それがそのまま彼の心情を表しているようで、一瞬、声を掛けるのが遅れてしまう。
気配に気付いたのか、ベッドに深く腰掛けていたクライヴが顔を上げる。沈痛な面持ちが、天使の姿を認めて微かな微笑みに変わった。
「……クライヴ…?」
「…ああ。……忙しいのに、呼び出してすまない」
「いえ、私なら大丈夫です。でも…」
これまでにも時折見え隠れしていた、彼の持つ、アンデッド ―― レイブンルフトに向けられていた怒りと表裏一体の脆さ。それが今日は、一層強く感じられた。
同じ目の高さで話がしたくて、アリアは翼を消すと静かに隣に座った。
「眠れないのですか?」
「………」
無言と、淋しげな笑みとが、天使の問いを肯定していた。
拭い去れない不安に揺れる、頽れそうな眼差しが痛い。
けれど何も言えずに、その瞳を受け止めることしかできなかった。
見つめ合っていた視線が、更に翳りを帯びる。
そうして、不意に上体を傾けると、クライヴはベッドに横になった。
「―――」
突然膝枕をする格好になったアリアがあげかけた驚きの声は、しかし硬く閉じられている瞼に吸い込まれて音を失くす。
甘えられているのだと気が付いて、戸惑うより先に、どうしようもなく切なくなった。
他者との係わりをずっと拒み続けてきた彼にとって、それがどれほど稀有なことなのか。分かる分、有り体の慰めなど安易に口にはできなかった。
「―― これで、……終わったのか?」
双眸を伏せたままの、押し殺した呟きが胸の奥に刺さる。
苦しくて、見えないと知っていながらもまず首を振って、その言葉を否定せずにはいられなかった。
「……終わったのではなく、始まるんです。ここから。
だから今は、眠りましょう…? 全ては、それからです…」
「…ああ、……そうだな…」
深く息をついて、クライヴは僅かに表情を和らげる。
それにほんの少し安堵しながら、アリアはふと、昔インフォスで聴いたある曲のことを思い出していた。
一度耳にしただけなのに、はっきりと憶えている。愛しい人の眠りを見守る、かつて使われていた古い言語(ことば)で綴られた唄。
そして彼女は、子守唄の代わりになれば…と、その唄を小さく口ずさんだ。
あなたは、ひとりじゃないから。
ここに、…傍にいるから。
今はただ、
辛かったこと、苦しかったこと、哀しかったこと、
何もかも忘れて、眠って…。
澄んだ声が、達成感と虚無感の狭間で立ち尽くす心に光を降らせていく。
願うように。祈るように。
やさしく、……抱きしめるように。
天使が一番を唄い終えると、部屋には再び静寂が訪れる。
と、眠ってしまったかに見えたクライヴが瞬きした。
「……今のは?」
「以前降りた地上の唄なんですけど…。
……ごめんなさい。煩かったですか?」
「いや…。知らない言葉だが、聴いているとなんだか安心する。
できれば、もっと聴かせてほしい…」
「………」
ナーサディアから教えてもらった詞の意味を思い、アリアは一瞬だけ躊躇する。
しかしすぐに、微笑んで頷いた。
今ここにいるのは、長年の宿願を成し遂げ、その後の未来を模索する一人の青年で。
だから今だけは、“天使”ではなく、彼を想う一人の存在(ひと)として傍にいることが、赦される気がした。
まるで恋人にするように、やわらかな黒髪に触れて。
アリアはまたそっと、唄い出す。
この地上の破滅を目論み、暗躍する邪悪な勢力さえも、部屋の中を徐々に満たしていく暖かな雰囲気(くうき)を壊すことは叶わずに。
想いを秘めたまま、けれど幸せなふたりだけの午後(ひととき)は、何に妨げられることなくゆっくりと過ぎていった。
fin.
2002,01,01
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