ウェスタを送り出し、カイルも帰ってしまった後。
塔の大きな窓から、アイリーンは両手で頬杖をついたまま空を眺めていた。
勇者として世界を巡るようになる前にも、よくこうやって外を見ていた。
セレニスが秘術で甦り、全てが壊れていった日から。
祖父が逝き、フェインが旅立ち、……一人きりで。
現実(ここ)からいつか逃げ出したくて。けれど自分からは一歩も踏み出せずに。
でも今は、あの頃とは違う。
フェインへの手紙に、これまで飲み込んできた想いを全部託したことで、長い間心を占領し続けてきたわだかまりはなくなった。
ただ、ずっとそれに縛られて生きてきたせいだろう。胸にはぽっかりと穴が空いてしまっていた。
ぼんやりと夜風に吹かれているうちに、いつしか東の空が明るくなってくる。
その、少しずつ薄らいでいく闇の中に白い翼を見付けて、アイリーンは数度瞬きした。
あっという間にそれはこちらに近づいて、ばさばさっという情緒も遠慮もない羽音が、静寂に慣れ切っていた耳を打つ。
そして、いつものように前触れもなく、彼女の良く知る天の遣いらしからぬ天使が姿を現した。
「よう」
短い挨拶と伴に、軽い身のこなしでカイルは窓を乗り越える。
しかしアイリーンは、恒例の出迎えの言葉も口にできずにいた。
何をしに来たのだろう、と思ってしまう。
昨夜別れてから、まだ数時間しか経っていない。
急な事件だろうか? だが今は、勇者の任務を受けられるような気分とは言い難かった。
歓迎されていないのを知ってか知らずか、黙り込む彼女を改めて見たカイルは僅かに眉を寄せた。
「やっぱり、起きてたな」
「……報告書を出しに、帰ったんじゃなかったの?」
「それが早く終わって、なんか気になったから来てみたんだけどさ。
…眠れなかったのか?」
「別に、ウェスタを待ってただけよ」
「はいはい。そーゆーことにしとく」
「………」
宥めすかす口調に、更にむっとしてしまう。
我ながら苦しい言い訳だということは、分かっていたのだけれど。
いつからだろう。この天使に子供扱いされたくないと思うようになったのは。
―― 実際に外見は子供なんだから、仕方ないじゃない。
自ら突っ込みを入れると、アイリーンは小さく溜息をついた。
「でも、風邪には気を付けた方がいいぞ。夜になると冷えるんだし」
真面目な顔に戻って、カイルがそっとアイリーンの頬に手を伸ばす。
「ほら、ほっぺたもこんなに冷たくなってるぞ」
「……え?」
触れられた手のひらから、カイルの体温が静かに静かに伝わってくる。
指の先にまで、温かな血が通っていくように。
そうしてアイリーンはやっと、全身が冷え切っていたことに気が付いた。
「………」
先刻とは別な意味で、声が出ない。
それをやさしい眼差しで見守っていたカイルは、大きな手を今度は彼女の頭の上に置いた。
「悩むな、ってのは無理かもしれないけどさ、あんまり一人で思い詰めるなよ。
なんかあったら、俺を呼べ。そしたら、すぐに来るから」
「………。何言ってんのよ。いつも忙しいくせに」
彼の言葉は、泣き出したくなるほど嬉しかった。
もう、一人じゃないんだって、……思った。
だが正直に伝えるのはなんだか気恥ずかしくて、ついつい憎まれ口を叩いてしまう。
しかも内容自体は正に正論で、カイルはうーんと低く唸った。
「すぐに、ってのは確かに厳しいかもしれないけど、できるだけ早く、駆けつける。
―― 約束する」
「―――」
真剣な瞳にどきっとした。
それ以上はぐらかすことなどできなくて、ほんの少し俯いた。
「……アリガト」
ぼそっと呟く。
カイルは相好を崩すと、そんな彼女の頭をやや乱暴に撫でた。
「ちょっと、何すんのよっ」
くしゃくしゃにされた髪を手櫛で直しながら、思わず怒鳴る。
当の天使サマとはいうと、飄々と明るい声で笑っていた。
「やっぱアイリーンは、そーやって元気な方が似合ってるよな」
「カイル…」
「とりあえず、今はむずかしーこと考えずに休めよ。ウェスタが帰ってきてからでもいいからさ」
「…分かった。そうする」
「ってことで、俺は天界に戻るわ」
「……あんた、結局何しに来たわけ?」
「最初に言っただろ、アイリーンの様子を見にきたんだって。じゃーな」
それだけ言い切ってしまうと、カイルはまた身軽に窓から飛び立つ。
呼び止めようかと、一瞬迷った。
なんとなく、まだ一緒にいたかった。
その想いが届いたように、
「…どうした? アイリーン?」
外から窓枠に寄り掛かり、心配げなカイルがこちらを覗き込む。
それだけで充分だった。投げやりではなく、もういいと思えた。
“何”がいいのかは分からないまま、彼女は天使に以前のような笑顔を見せた。
「んーん、何でもない」
「そっか」
カイルは安心したように微笑うと、背中の羽根を大きく広げた。
清涼な風がアイリーンを包んでいく。
身を乗り出して真っ白な翼を見送りながら、黎明の光の眩しさに手を翳す。
新しい一日の始まりを告げる朝の陽を受け止めていると、気負いなく、まっさらな自分になれる気がした。
アイリーンは、やれるだけのことをやったんだ。
だから自分だけを、責めることなんてない。
そう言ったカイルの眼差しを、何故だか急に思い出す。
屈託のない笑顔。
一般の天使像からは掛け離れた、ぞんざいとも聞こえる口調。
だけどいい加減なようでいて、誰より地上を大事に思っていることも、知っている。
辛い時、気付けばいつだって、隣で支えてくれていた。
たまに、戸惑うくらいにやさしい瞳で、傍にいてくれた。
―― 胸に空いた隙間が、カイルのことだけで満たされていく。
ゆっくりと。本当に、魂(こころ)ごと、生まれ変われるみたいに。
「……カイル」
名前を、呼んでみる。
大切な大切な、彼女の天使の名前を。
曙光がきらきらとした粒子になって、肌を滑り、消えていく。
それを追った視線が、足元に落ちる影の処で止まる。
違和感と同時に感じた疑問が驚愕に変わるのに、さして時間は掛からなかった。
勢いよく振り返ると、アイリーンは奥の部屋にある大きな姿見の前へと駆け出した。
息を呑む。
鏡の中には、ローティーンの少女ではなく、セレニスにとても似た女(ひと)がいた。
「…魔法が、解けてる……」
おそるおそる冷たい鏡面に触ってみると、そこに映る人も全く同じ動きをなぞる。
一人残されたこの塔で、日に日に姉に面差しが似てくる自分を見ていることに耐えられなくて、無意識に掛けた魔法。
だから解き方も、知らずにいたのに……。
涙が、頬を伝った。
過去は、どんなに悔やんだって変えられない。
それが、世界を救う勇者でも。……天使でも。
でも、未来は違うだろ?
「そうだね…」
弱気になっていた時には表面上でしか捉えられなかった言葉が、今になって心に染み渡ってくる。
きっとこれからだって、生きている限り、何らかの苦しみはついてまわるのだろうけど。
それでも、逃避とか後悔とか、贖罪じゃなく。
純粋に何かを希むことができる未来が、信じられる気がした。
そしてアイリーンは自分の、痛いほどに澄んだカイルへの想いを初めて、自覚する。
それと伴に、溢れてくる、ひとつの願い。
……どうして、叶いそうにない相手にばかり恋してしまうのかと、少しだけ、苦笑して。
だって彼がここにいるのは天使としての仕事の為で、それが終われば帰らなければならない世界がある。
だけど。……もし、願えるのなら。
ねえ、この気持ちを伝えたなら、
あなたは、地上(ここ)に残ってくれる?
―― ずうっと、傍にいてくれる…?
もう一度、窓の向こうの空を見つめて。
アイリーンは天使が触れた頬に自分の手を当てて、その温もりを辿るように瞳を閉じた。
fin.
2001,06,10
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