step forth

 同行に来たはずなのに、一分も経たないうちに飛んで帰ってしまった妖精を、成す術もなく見送った後で溜息をつく。
 見掛けに依らず、かつ軽い調子ではぐらかしつつも、実は周囲を細やかに気遣う天使は、パートナーである妖精の報告を受けて、直(じき)にここにやって来るだろう。
 まだ、心の準備ができてないんだけどなぁ…。
 すぐに会いたいような、顔を合わせにくいような、少々複雑な心境が二度目の溜息になる。
 最初の言葉を探しながら仰いだ空に、淡い雲間を擦り抜けてくる白い翼を見付けて、三度目を飲み込んだ。
 かなり距離があるにも拘らず、申し合わせたように視線が重なる。
 深い緑の双眸に驚愕が映ったのは、意外にもほんの数秒だけで。
 書庫の窓を越えた、挨拶なのか単なる掛け声なのか判別し難い「よっ」という第一声はあくまで、平素と変わりなかった。
 あ、知ってたんだ、と思う。
 案の定あっさり「元に戻ったんだな」と続けたカイルに、アイリーンは素直に頷いた。
「忙しいのにごめんね。
 リンクス、説明も聞かずに飛び出してっちゃったから…」
「ああ、言ってることが全っ然判らないから、来た方が早いと思ってさ。
 …まぁ、あいつは何も知らないしな」
「カイルは知ってたんだね」
「お前とフェインの話と、地上の動きを合わせて考えてるうちに、なんとなく、な」
「そっか…」
 独り言に似た呟きに返ってきたのは、ぽんぽんと軽く頭を叩く右手だった。
 前会った時と同じ、小さな子供を相手にしているような応え。
 今日の彼は何故か、殊更意識してそうしている気がした。
「―― ねぇ、カイル…?
 私も自分の為に何かを、願ってもいいのかな?
 大好きな人と一緒に生きたいって、思ってもいいのかな…?」
「当たり前だろ。
 じゃあフェインがここに戻ってきたら、ちゃんとそう言わないとな」
 天使は何処か、安堵を含ませて微笑う。
 それもなんとなく予想していた。
 ひととき、指先を掠めた感情(もの)を手繰る。アイリーンは静かに首を振った。
「フェインは、大事な兄さんだよ。
 …私ね、この魔法が解けたのは、あなたのおかげって思ってる。
 地上が平和になっても、傍にいてほしいって…」
「……物好きだな」
 眼差しが、困惑と葛藤に微かに揺らぐ。
 それをまっすぐに見つめ返すと、珍しく目を逸らしたがっているのが判った。
「そうかな? そんなことないと思うけど」
「だってお前、今まで色々とキツい思いをしてきたんだからさ。もっとこう、判りやすく甘やかしてくれる奴の方がいいんじゃないのか?」
「カイルもやさしいよね。…ちょっと判り辛いけど」
「………」
 感情的だったり、計算尽くの相手を往なすのは得意でも、穏やかに虚を衝かれるという状況には不慣れなのかもしれない。
 基本的に言動の切り返しの早いカイルが、完全に返答に窮している。
 やがて、参ったと言いたげな顔で、大仰に肩を竦めた。
「―― 前から、気付いてたのか?」
「ううん。でも、いま話してて、もしかしたらって…。
 本当にそうだったら嬉しい」
 表情の、耳に届く言葉のひとつ ―― 彼の場合更にもうひとつくらい、奥にあるもの。
 ふと視えた、感じたそれは、本心だと思うのだけれど。
 口にしていたことも決して嘘ではなく、屈折してはいるが彼なりの ―― らしいといえばらしい、思い遣りだったのだろう。
 だからこれ以上、問い詰めるつもりはない。
 ただ自分の想いだけは、偽らずに伝えておきたかった。
 沈黙と、続くすっかり観念したような天使の吐息で、雰囲気(くうき)が変わる。
 正しく時間(とき)を経た外見(すがた)になっても、カイルの方が頭一つ分は背が高い。
 その頭を伏し目がちにがしがしと乱暴に掻き、一度俯いて、―― 吹っ切れたように上げた顔には、不敵にも見える笑みが浮かんでいた。
「…ま、この塔の貴重な本や資料、アイリーンに任せておいたら、いつまで経っても片付かないしな。
 後世の魔導士の為にも、俺が手伝ってやるよ」
「…ずっと?」
「一ヶ月や二ヶ月で、どうにかなる量じゃないだろ」
「……うん…」
「―――」
 何か、おそらくは照れ隠しで茶化しかけて、だがカイルは自嘲めいた苦笑と伴に唐突に黙り込む。
 僅かな逡巡の後で不意に真顔になると、首を傾げる間もなくアイリーンは、腕の中にきつく抱き寄せられていた。
 驚きで思わず、息が止まる。
 けれど瞬きが終わる前に、心は最奥まで、やわらかく凪いで。
 不思議に、初めて恋(おもい)が叶えられた、舞い上がるような高揚感はなく、
 胸を占めるのは、忘れていた大切な場所に、やっと還ってきたみたいな安らぎ。
 普段から、好意に関してはとりわけ、二重三重のオブラートにくるんでいるカイルの口に、歯の浮きそうな口説き文句など、これから先もたぶん、上ることはない。
 それでもいま包まれている温もりが、幾百の甘い言葉より、何より一番、確かな気がした。
 まるで決まっていたことのように自然に、広い背中にそっと、腕を回す。
 そして、
 振り返る為ではなく、先に進む為に、現在(ここ)から一歩、踏み出したいと思った。
 急に開けた視界に、まだ少し、戸惑うけれど。
 無造作に、だけど強く繋いでいてくれるこの手があれば、
 “今日”は、過去だけじゃなく未来とも繋がっているときっと、信じていけるから。
 成長(とき)を歪めていた魔法と伴に、澱のように積もった哀しみや淋しさもほどけて。
 代わりに満たされていく愛しさが、ずっと在り続けるよう願う。
 幸せな気持ちでも泣きたくなることを、今更みたいに思い出して。
 零れそうになった涙を誤魔化す為に上を向いたら、大きな手の温もりが甘く、髪に触れた。

fin.

2007,06,10

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