チョコレートミルクティー

 深呼吸をひとつして、ドアを軽くノックする。
「お茶を持ってきたの。入ってもいい?」
「ああ」
 嬉しそうな返事に、ドキドキしながら執務室へと足を踏み入れる。
 くるみが無駄のない上質な造りの机に歩み寄ると、温かな笑顔が迎えてくれた。
「ちょうど何か飲みたかった処だ。気が利くな」
 さりげなく書類を脇にまとめる心遣いに笑みを返し、ティーカップを静かに置く。
 ほのかに立ち上るコクのある甘い香りに、記憶を辿るようにレオンは目の前の紅茶を見つめた。
「これは…」
「人間界の私がいた国では、この時期に、女の子が好きな人にチョコレートを贈るの。
 今回は小さな物しか手に入らなかったから、ミルクティーに入れたら、ちょっと長く味を楽しめるかなって…」
 好きな物を好きな時に買っていい。そう言われてはいるが、魔界の通貨と貨幣価値が理解できるようになり、以前市場でもらった一箱がどれほど高価だったのかも、改めて認識していた。
 チョコレートは喜んでくれるはずだが、事後承諾になってしまうことはなんとなく気が咎めた。しばらく迷った末にアインスに相談したら、返ってきたのは、「こういう時くらい贅沢をしても、誰も怒りませんよ」というくすくす笑いで…。
 意を決して先月からリュカに取り置きを頼んでいたのだが、生憎今日までに入荷したのは、一口サイズの一個のみだったらしい。訪ねてきたリュカは「ごめんね~」を繰り返し、「これはね~、くるみにあげる~」と頑として代金を受け取らずに帰ってしまった。
 そんなわけで、次はどう贈ったらいいのかと再び頭を悩ませ、思いついたのが、チョコレートミルクティーだった。
 もしかして、そのまま渡した方が良かったのかな…?
 カップを持ちかけて止まった手を見遣り、不安が一気に胸に広がる。
 しかしレオンは、慈しみ愛おしむ眼差しを上げて淡く微笑った。
「おまえは食べたのか?」
「え?」
「チョコレート、好物だっただろう?」
 かつての言動が子供染みていたと、今では自覚しているのだろうか。表情に僅かだが、極まり悪いものが混じる。
 本気で怒って平手打ちをしてしまった、あの日のやり取りを思い返すと自分もなんだか恥ずかしくて、意味もなくくるみはトレーを抱え直した。
「……うん、でも…。
 レオンは、私が初めて好きになって、初めてチョコレートを贈りたいって思った人だから…。
 レオンがこれを受け取ってくれるのが、一番嬉しいの」
「―― 来い」
 脈絡のない、けれど甘やかに響く言葉(こえ)に、花の蜜に誘われる蝶のように惹き寄せられる。
 座った膝の上と背中を抱く腕の温もりに包まれて、高鳴る鼓動を抑えつつ、ティーカップに口を付ける横顔をそっと眺めた。
 細められた瞳にほっとした処で、感想を聞く間もなく、不意に唇を合わされる。
 驚いて思わず名前を呼んだ隙間から、舌が自然に滑り込んできた。
「…んん……っ…」
 ゆっくりとチョコレートを味わわせてくれる、憶えのある動き。
 一口飲むたびに、やさしく深く…唇と舌を重ねられて。
 懐かしい人間界の味と分かち合う体温が、身も心も蕩けさせていく。
 カップが空になった後も互いにキスを止められず、無意識のうちに、熱く肌に触れる指をねだってしまいそうになる。
 ―― もっと…。
 言いかけて、ここが日中の執務室なのを思い出すと、慌てて代わりに、遅ればせながら「どう…?」と小さく尋ねた。
「美味かった。ありがとう。
 ……礼の続きは、今夜ベッドでじっくりしてやるからな…」
「う、うん…」
 ふたりきりなのに内緒話めいた低い囁きが、耳元へ落とされる。
 きっと全てを見透かしていて、わざと煽っているのだと気付いても。
 上機嫌ゆえの意地悪で、それ自体には嘘がないのも分かってしまって。
 素直に頷く振りでくるみは、火照る頬を少しでも隠す為に俯いた。

fin.

2010,02,27

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