呼んでも、返事どころか顔も上げられずにいる様子に、最前と違い覚えたのは、棘に似た小さな痛みだった。
取ってきたほうきとちりとりを、無造作に、俯くくるみへと差し出す。
そしてレオンは、できる限り抑揚のない口調で言った。
「手で片付けると、怪我をする。使え」
「え…」
「…つ、使いたくなければ、使わなければいいだろう!
怪我でも何でもしてしまえばいい!」
エプロンの前で止められている両手に掃除用具を押し付けながら、またつい、一瞬の怒りに任せて怒鳴ってしまう。
心の片隅では僅かに悔やみつつも、呆然とこちらを見上げる大きな瞳に、今度は恥ずかしさのあまり再び語気を荒げていた。
「文句があるか!
そんな顔してる暇があったら、さっさとここを片付けろ!!」
そもそも皿を割った張本人が命令することではないのだが、流石に、この程度の理不尽さには順応してきているらしい。くるみは慌ててほうきを持ち直し、散らばる破片を集め始めた。
それを無言で見つめる。抜け切らない棘が、先刻よりも鋭く胸の奥を刺す。
片付けが終わると、新たな傷の要因がないか注意深く確認した後で、レオンは敢えて不遜な態度を崩さずに口を開いた。
「ふん、まあまあ綺麗になった。
……け、怪我はないな」
「は、はい…、大丈夫です」
今日初めて見た、偽りのない笑顔に思わず、安堵する。
しかし青い双眸はすぐに、やや伏し目がちに顰められた。
「―― 大丈夫じゃないだろう」
「あ…」
壊れ物でも扱うように、くっきりと指の跡が刻まれた手首を引き寄せる。
「ん……」
舌で辿る白い肌は、この前、蜂蜜のついた指を舐めた時と同じように甘くて。
もしかしたらこれは、心が感じている、まやかし、……なのかもしれない。
だとしたら、何がそう錯覚させているのか。
レオンはその答えから無意識に目を逸らし、ゆっくりと傷を癒していった。
「俺に魔力があれば…、こんなもの、……すぐに治せるんだが…」
「………」
噛み付かれた痛みを覚えているのだろう。くるみは身体を強張らせ、明らかに畏怖している。
それでも押し殺すように零れた吐息は何処か、艶めいてもいて。
好きな男にこうして触れられたなら、
おまえは、どんな表情(かお)を見せるのだろう。
望んでそいつに抱かれたなら、
城に来たあの日よりも、
もっと…甘い声で応えるのだろうか…?
赤い月への生贄の乙女なのだから、それは誰も、知り得ることはない。
馬鹿げた問いを、最後のキスで打ち消して軽く視線を落とす。
魔力を失くしてからは舌での治癒力も低下していて、そこにはまだ、赤い痕が薄く残っていた。
「―――」
周囲が泣こうと喚こうと関係ない。そうやって他人を踏み付ける権利が、自分にはあると思っていた。
なのに、こいつにだけは、
辛く当たった後で、酷く苦い、後悔に襲われる。
やわらかく腕の中に包み込んで、何度でも口付けたくなる。―― それは単なる欲望とは、少し違った感情(きもち)のようで…。
「…その、だな。
……悪かったな」
慣れない謝罪を、消え入りそうな声で呟いて。
気まずさを自身への言い訳にしてようやく掴んでいた右手を離すと、レオンは次の言葉を待つことなく背を向けた。
わざと乱暴に食堂を出て、足取りを緩めずに廊下を歩いていく。
こんな風に、
庭の青薔薇がさざめくより密やかに、
けれど確実に、
あいつの存在は、心の在り様さえも変えてしまう。
“唯一触れる”ことを理由にするには、
既に、その振り幅は広過ぎて ――― 。
何もかもを、力のみで捻じ伏せてきた。そうして失ったものを、正しいのはいつだって己なのだと、顧みることすらしなかった。
今更、遠からず命を奪う女の些細な怪我を気遣うなど、それこそ馬鹿げている。冷然と評しつつ、自覚してもなお、矛盾した想いを棄てられない。
初めて識る、そんな二律背反に揺らぎながら。
孤独な城主が迎える最初の大きな転機はもう、すぐそこまでやって来ていた。
fin.
2008,09,07
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