二度と袖を通すことはできないと思っていた形見のドレスは、魔界の一員となった肌により馴染んで、会ったことのない以前の持ち主に少し近づけたようで嬉しくなる。
逸る気持ちを抑え、ややおずおずと広間に顔を出したくるみを迎えたのは、愛しさに溢れた感歎の吐息だった。
「そのドレスは、やはりおまえに良く似合うな…」
「…あ、ありがとう」
ほっとして、改めて気付いた熱の籠った眼差しに思わず、頬を染める。
レオンは軽く笑うと、あの夜と同じ優雅な仕種で、彼女の前に跪いた。
「美しき妖精の姫君、今宵も私と踊っていただけますか?」
「はい、喜んで」
照れ隠しのような、畏まったやり取りの後で互いに微笑む。
腰を抱かれ、巧みなリードに身を任せて踊り出すと、すぐにレオンが目を瞠った。
「一度踊っただけなのに、ステップを覚えているのか?」
「楽しかったから、身体が覚えていたみたい」
「そうか…。
これなら領主の妻として、どんなパーティに招かれても大丈夫だな」
「……レ…オン…?」
一瞬、さらりと言われた言葉の意味を覚るのが遅れ、足が止まる。
よろけて傾いだ上半身をレオンは動じることなく受け止めて、小柄な背中をそのまま強く抱き竦めた。
「くるみ、俺の嫁になれ。
……言っておくが、今回ばかりは嫌とかダメはなしだぞ?
俺様の花嫁になれる女は、魔界中を探したって、おまえしかいないんだからな」
「―――」
予期せぬタイミングでのプロポーズに、まず驚きが先に来てしまう。
上手く答えを探せずに火照る顔を上げると、くるみ、と不意に耳元で、声音が僅かな躊躇いを含んで揺れた。
「俺は今までの行いを、領民達に詫びようと思う。そしてこの地を守る領主として、やり直したい…。
おそらく、そう簡単には行かないだろう。その為におまえに、辛い思いをさせるかもしれない……」
一息置くのと同時に、温かい両手が頬を包み込む。
そこに、包容力と伴に淋しがり屋な一面を感じたくるみは静かに、大きな手に自らの手を重ねた。
「だが…、我が侭だと分かっていても、おまえに傍にいてほしい。もう二度と…、手放したくない。
俺の愛する女は、…愛されたいのも、抱きたいのも、……おまえだけ、だから…」
かつて信じていた奇跡よりも強く心を捉えた、青い双眸に映る、狂おしいほどの希み。
慈しむように唇をなぞる指から、先刻滲ませた逡巡が、愛情故の葛藤なのだと伝わってくる。
全てを捧げた特別な存在(ひと)が、自分を、こんなにも真摯に求めてくれている。
胸を震わせる喜びに、更に言葉は声(かたち)にならず、くるみはただひたむきに、レオンを見つめることしかできなかった。
「俺に、…時間をくれるか?
おまえを魔界一幸せにするまで、俺に少し、猶予をくれ…」
「―― 私はもうきっと、魔界で一番幸せだよ。
レオンの傍にいられて、ずっと一緒に生きていけるようになったんだもの」
普段の自信家な彼らしからぬ願いは、とても切なく聞こえて。
ようやく、拙いながらも懸命に告げた想いに、レオンは破顔一笑する。
それから、髪をゆっくりと梳くように撫でてくれた。
「欲がないな。しかしそれでは、俺の気が済まない。
おまえの心を、身体を…、今よりもっと、最高の幸せで満たしてやるから…」
「レオン…」
「それで、…その、……どうなんだ?」
「え?」
「俺はまだ、おまえの返事を聞いていないぞ…」
「………」
最初の強気がすっかり鳴りを潜めてしまった、低くぽつりと漏れた呟き。
酷く不安げな、じっとご主人様の帰りを待つ仔犬めいた表情に、自然と笑みが零れてしまう。
本当に、この人はなんて……。
「なっ…、何故笑う!? 俺は真剣に、…おい、くるみ!!」
声を荒げても、威厳など全くなくて。
そんな様子さえ、あまりにも可愛らしくて、愛おしくて堪らない。
くるみは満面の笑顔のまま、恋人の腕にぎゅっと抱きついた。
「嬉しいの。すごく、嬉しい…。ありがとう、レオン…」
「そ、それは、…と、当然だな! 俺と結婚できて、おまえが嬉しくないはずがないからな!」
「うん。―― レオン、……愛してる。
私が愛されたいのも、抱かれたいのも…、レオン……ん…だけ、なの…」
最後の一言は、やわらかな口付けの中に消える。
啄ばむように軽いものでも、絡めるように深いものでもなく、
だけど交わす確かな温もりは、甘やかな誓いに似て。
こうやって手を取って、緩やかに踊るみたいに。
瞳を合わせて、同じ足取りで。
大切な今日を、幸福な未来を、
―― いつでもふたりで、紡いでいこうね。
窓の向こうに、淡い雪が舞い始める。
けれど今夜はその儚い白さの中に、消えてはまた生まれる、ひとひらの永遠を視た気がして。
ふと目を細めたら、大好きな人の唇が、今度はそっと…額に触れた。
fin.
2008,07,13
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