部屋にやってきたくるみが水を張ったバケツを床に置いた隙に、素早く腰を引き寄せて抱きしめる。
予想はしていたのだろう。レオン様、と半ば呆れ気味に窘める声を遮り、口付ける。
抱擁から逃れるように、それでいて甘く胸に添えられた手を取って指を絡めた。
「……んっ…レオン様、私……お掃除しなきゃいけないんです……けど…」
「それより…ご主人様の相手をする方が……大事…だろう?」
「そんなの……知りません」
「…俺が今、決めた……」
「もう…」
自分勝手だと言いたげな吐息をキスの最後に掬い取り、腕をほどく。
すぐに一歩退いたくるみは、けれど欲目なのか、僅かに淋しそうな表情でゆっくり瞬きした。
「お掃除、しますね」
そっと微笑み、返事を待たず向けられた背中。
レオンは窓辺のソファーに腰掛けると、頬杖をつきながら小柄な後ろ姿を静かに目で追った。
子守唄を聴かせ添い寝したあの夜から、くるみとはほぼ毎日こうして唇を重ねていた。
軽い反抗を口にしつつも確かに応えてくる、温もりは何処か、安息に似て。
いつのまにか本気で嫌がっているかを自然に量り、引き時を察するようになっていた。
呪いも赤月も白い蝶のことも、触れ合っていると忘れてしまう。―― 無意識に、思考に蓋をしてしまう。
そして一人になるたび、ここにいさせている理由を思い出しては、焦燥感に飲まれそうになる。
後ろめたさを含むその感情は、“何”に対するものなのか。
日ごと重さを増すそんな繰り言にさえまだ、見て見ぬ振りを続けていたくて…。
「……レオン様…?」
視線を感じたのか、窓を拭いていたくるみがふと振り返る。
無防備な仕種に、揺らぐ気持ちはやわらかく溶け、だが次の瞬間再び、例えようのない苦みを伴い胸の深くに堕ちた。
「おまえがしっかり仕事をしているか、見張っているんだ」
「…ふふっ、じゃあ、ちゃんと見ていてくださいね」
「ああ」
真顔で言った建前に気付いている、綻ぶ可憐な花を思わせる笑顔。
大仰に頷いてみせたレオンは、空に舞う白い羽を、綺麗に磨かれた窓の先に求めて遠く目を凝らした。
こんな平穏は仮初めでしかなく。遠からずきっと、破綻する。
同時に膨れ上がる矛盾は一方で確実に心を浸食し、おそらく『その時』を待たずして、痛苦へと形を変えて溢れ出す。
分かって、いるのに……。
本当は決まっている、“答え”を未だ、選び取ることができぬまま。
密やかに、―― 願っている。
この笑顔が、
少しでも永くここに…在ることを。
fin.
2010,03,13
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