ずっと傍で、ずっとこの手で

 緊迫したシーンに、無意識のうちに息を詰めてページを捲る。
 誰もいないはずの背後から聞こえた微かな衣擦れに、ヒロインはおそるおそる振り返り……。
「きゃあっ!」
 突然、絶妙なタイミングで肩を叩かれ、悲鳴と伴にコレットはきつく目を瞑った。
「ん? どうしたの?」
「アゼル…! 驚かせないで…」
「ああ、これを読んでたんだ。自分がこの話に入り込んだ気分になっちゃった?」
 肩越しにテーブルの上を覗き、アゼルは一見無邪気に笑う。
 胸に手を当てて呼吸を整えたコレットは、何処か得意げな横顔を睨み付けた。
「……判っててやったでしょう?」
「違うって! 夕食ができたから、君がここにいるって聞いて呼びに来たんだ」
「そんな時間なのね。ありがとう」
 昨日、これも面白いよと薦めてくれたのはアゼルだ。
 確かに読み始めたら止まらなくなったが、ドアが開く音も気配もなかったのには、多少なりとも作為を感じる。
 とはいえ、日が暮れたことにも気付かなかったのでは、どんな呼ばれ方をしても結局は驚いてしまっただろう。
 もう一度深呼吸し、素直に礼を言って立ち上がる。
 図書室を出るとすぐに、右手で抱えていた本を、ライラック色の瞳がからかうように見下ろした。
「その本、部屋に持っていくの?
 さっきの様子だと、夜に読んだら眠れなくなるんじゃない?」
「だって後少しだし、続きが気になるんだもの。
 それに眠れなくなっても、アゼルが傍にいてくれれば平気でしょう?」
「あははっ、そうだね、任せといて!」
 屈託のない笑顔と、ぴょこぴょこと跳ねる動きに合わせて揺れる、赤みがかった金の髪。
 見ているとなんだか楽しくなってきて、子供染みた悪戯に怒った気持ちも全部消えてしまった。
「明日孤児院に行くんだけど、君も一緒に行こうよ」
「お仕事?」
「ううん。先月のお祭りの時、また遊びに行くって約束したんだ」
「じゃあ、くまちゃんで行くのね?」
「うん! 皆でくまちゃん音頭を歌うんだよ~」
 ずんちゃずんちゃ…と歌い出した明るいメロディーに、また頬が緩みかける。
 だが、強い風が吹いたのだろう。不意に大きく鳴った窓に、コレットは思わず身を竦ませた。
 その向こうは既に暗く、目を凝らしても、遠くまでは見通せない。
 怖い本を読んで物音に怯えるなんて、私の方が子供みたい…。
 知らず落とした視線に引き摺られ、沈んでしまった心を掬い上げるように。
「コレット」
 先刻までより僅かに低い、けれどとてもやさしい声で、空いていた手が安らぐ温もりに包まれる。
「大丈夫だよ。
 何が来ても何が起こっても、僕が守ってあげるから」
「―――」
 そう、いつだって。
 招かれざる客に狙われていたお城でも、以前はあれほど恐れていた外の世界でも。
 アゼルはずっと私を守ってくれている。
 顔を上げてゆっくり握り返すと、今度は自然に笑みが零れた。
「へへっ。ほら、ご飯を食べに行こうよ」
「ええ」
 指を絡めたまま歩き出す。
 ふたりの隣にあるガラスにいま映るのは、夜の中でやわらかく溶け合う屋敷と街の灯りで。
 得体の知れないものに見えた黒い景色も、大好きな人に触れていれば、穏やかな宵闇へと変わる。
 ―― ありがとう。
 再び口ずさみ始めた、くまちゃん音頭を聴きながら。
 コレットは繋いだ手にそっと力を込めた。

fin.

2011,02,27

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