All for You

 湯船に入れた木綿の袋から、ほんのり甘いハーブの香りが浴室に広がる。
 素朴な香りをゆっくりと吸い込んだコレットは、そっとエリックの肩に身体を預けた。
「どうしました?」
「自分で家事をしてみて改めて判ったけど、コックさんもメイドさんも、すごい人達だったのね。
 やってもらって当たり前なんて思ったことはないけど、お城を出る前に、もっとありがとうって言えたら良かったわ」
「お嬢様…」
 父や兄のように慕っていた頃を思わせる、懐かしい眼差し。
 最近は滅多に聞かなくなっていた呼び名も、自然と零れてしまったらしい。
 エリックはやわらかな回顧を映した瞳で微笑んだ。
「今だけは、こう呼ばせてください。
 契約により働いていたのは事実ですが、城の使用人は皆、お嬢様を愛しておりました。
 主人にそう言っていただける私達は幸せです。
 ありがとうございます、お嬢様…」
「エリック…」
 白い壁に閉ざされた世界でも、確かに与えられていた、温かな想い。
 伴侶選びや一方的な婚約も、本人の意思を無視した手法に問題があったのは間違いないが、『あの方』は一貫して自分を守ろうとしてくれていたのだと、今では判っている。
 でなければ、城があれほど居心地の良い空気に包まれていたはずはないから……。
「尤も私は、いつしかその愛情が、使用人の域を超えてしまったのですが」
「それは…超えてくれなければ、私が困るわ」
 同じく『あの方』を思い出したのかもしれない。
 何処か極り悪そうに浮かんだ笑みに、拗ねた振りで軽く視線を落とす。
 その先で湯面が揺れ、立ち上る香りを微かに纏う手が頬に添えられた。
「焦らなくてもいいのですよ。
 平民の妻になったばかりでは、城で全く習ってこなかった家事が手際良くできないのは当然です」
「……エリックは私に甘過ぎると思うの」
「否定はしません。
 私の為にと毎日頑張っているあなたが、愛おしくて仕方ないのですから」
 今度は妻と言われた喜びと気恥ずかしさで、顔を上げられなくなる。
 噛み殺した笑い声が聞こえ、何もかも見透されているのがなんだか悔しい。意地になって俯いたままの額に、初めてのキスに似た淡い温もりが触れた。
「私にまだ教えられることがあるのが、嬉しいのもありますが…」
「じゃあ私が完璧に家事ができるようになったら、愛しいとは思ってくれないの?」
 こちらも少しくらい困らせてみたくて、やや上目遣いで悪戯っぽく尋ねる。
 しかし、
「完璧にできるようになったら、私の為ではなくなってしまいますか?」
「そんなの…。エリックの為に決まってるじゃない」
「だから私は、いつでもあなたを愛してやまないのです」
 反応を試す問いを問いで返されて、逆に試されたことを怒るより先に、甘く耳をくすぐる囁き。
 驚くほど呆気なく陥落させられて、けれどそれが妙に心地好くて。
 銀髪に頬を寄せ、広い肩に両手を回した。
「私も、とってもやさしくて、たまにちょっとだけ意地悪なエリックが大好き…。
 ねえ、この後ベッドでも、私をいっぱい甘やかして、可愛がってくれる…?」
「ええ。ただ…、また意地悪をしたくなってしまうかもしれませんが、……いいでしょうか?」
「ん…」
 返事の代わりに唇を合わせながら。
 やさしい意地悪を心の片隅で期待しているのに気が付いて、赤くなった顔を見られないよう、コレットはもう一度エリックにぎゅっと抱きついた。

fin.

2011,01,29

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