誓詞

 廊下から、他の船客達が既に起き出している気配が伝わってくる。
 けれどまだ、愛おしい肌(ぬくもり)に触れていたくて…。おはようのキスの途中でコレットは、その背にそっと手を伸ばした。
 厳しく躾けられ、主従の立場もあった城では、午前中エリックとベッドで過ごせたのは、初めて抱かれた翌日しかない。
 更に数ヶ月間会えずにいた反動も相俟って、溶け合ったまま満たされた前夜の至幸に、目覚めてもしばらく浸っていたくなってしまう。
 でも、毎朝これじゃ、エリックが困るかしら…?
 おずおずと顔を上げると、答えは二度目の淡いキスだった。
「後少し…、抱きしめていていいですか?」
「ええ…」
 仕種と視線で察して甘えさせてくれるのも、たぶん同じ気持ちでいたのも嬉しくて。
 もっと近くに寄り添い、緩やかに重なっていくふたつの鼓動を感じた。
 あの晩餐会の夜以降、再会できるまで、こうして安らいだ時間を持てたことは一度もない。
 勝手に決められた嫁ぎ先では、常に愛人を侍らせていた婚約者に心を開けるはずもなく…。使用人には上辺だけの丁重な扱いを受け、何もかもが褪めて見えた。
 対照的に、ふたりで始めたこの旅は、毎日がたくさんの新鮮な驚きに彩られている。
 もちろん良否は様々だったが、全てが、愛する人と伴に積んでいく大切な経験に思えた。
「ねえ、エリック」
 ここ数日考えていたことを尋ねてみようと、コレットはやや自信なさげに口を開いた。
「練習したら、私もお料理が作れるかしら?」
「お…コレットは手先が器用ですから、きっと大丈夫ですよ」
 十数年来の習慣はなかなか抜けないらしく、城を出てもエリックは時折、「お嬢様」と言いかける。
 だが改めて呼び直しながら浮かべる照れた笑みはとても可愛くて、そのたびに自分は本当に彼の恋人になれたのだと、―― そしてこれから妻になれるのだと実感できた。
 刺繍みたいに上手になれればいいけど…。呟いて、空色の双眸をまっすぐに見つめた。
「ふたりで住む家が見付かったら、エリックに美味しいものを食べてもらえるように頑張るわ。
 だけど、不味かった時はそう言ってほしいの」
「え?」
「だってエリックは、私が作った料理なら何でも美味しいって言い兼ねないもの」
「……ダメでしょうか?」
 図星だったのだろう。エリックは目を瞠り、やがてそこに微苦笑が混じる。
 彼らしい律儀な確認に、ゆっくりと首を縦に振った。
「ダメ…。ちゃんと言ってくれないと、いつまで経っても上達しないじゃない」
「困りましたね…。
 多少甘い点数を付けるのは、許していただけませんか?」
「ちょっとくらいなら、…いいわ」
 はっきり不味いと言われたら言われたで、おそらく落ち込んでしまう。全部見抜いているやさしい眼差しに頬が熱くなったが、またつい、意地っ張りな言葉が先に出る。
 しかし喉の奥で小さく笑う声が聞こえ、つられて思わず微笑ってしまった。
「あと、お掃除やお洗濯も覚えないとね」
「………」
 自分にしてみれば至極当然だったのだが、長年仕えてきた主人に家事をさせることに、エリックはやはり抵抗があるのかもしれない。
 続く沈黙に僅かに過った、執事としての憂いに気付く。
 そんな憂慮も、大事に想えばこそと判っているから。
「私にとっての幸せは、エリックとずっと一緒にいることよ」
 大きな手を静かに取って。
 両手でふんわりと包み込み、決して変わらない希み(きもち)を伝える。
 出逢える前、部屋に閉じ籠もって泣いてばかりいたように。
 この温もりを失くした途端、喜びも楽しさも感じられなくなってしまったように。
 身分や財産による庇護がどれほど正しく見えたとしても、あなたの存在に勝るものはないのだと…。
「エリックは私がお城で気持ちよく暮らす為に、いつも気を配ってくれていたわ。
 だから今度は私が、エリックの為に、自分にできることをしたいの」
「……コレット…」
 肩に回されていた腕で不意にぎゅっと抱き寄せられ、熱を帯びて震える吐息が髪を撫でていく。
「私にとっても、あなたの傍にいられることが、何よりの幸せです。
 ―― 幸せ過ぎて、あなたが愛し過ぎて……」
 ですが…、と少しだけ身体が離れる。
 目の前には穏やかな笑顔が、ひとかけらの迷いもなく広がって。
「以前のような不安はもう…ありません。
 コレット、私は必ずあなたを幸せにします。生涯あなたを守り、誰よりも幸せに…」
 澄んだセレストブルーに映る真摯な想いと、やわらかでそれでも揺るぎない声(ことば)。
 胸が一杯で、名前を呼ぶこともできずに潤んだ瞳で頷くと、
「愛しています…」
 今日三度目の口付けはまるで神聖な誓いのように、限りなく甘く重ねられた。

fin.

2010,06,12

Back