掛け替えのない自分の居場所である胸に飛び込む。
やわらかく抱き留めてくれる、懐かしい温もり。
堪えきれず零れた涙を掬った唇が、ほんの少し震えながら静かに重なる。
繰り返すキスが深くなるのに併せ、互いに背中に回していた手は、熱く繋がる素膚を求めて。
どちらかの自室に行くまでの時間も待てずソファーへと倒れ込み、ほとんど着衣のまま狂おしく愛し合った。
「…お嬢様……」
快さに白く溶けた後に訪れた気怠さは、まるで幸福な白昼夢(ゆめ)の中にいるようで。
醒めきらない余韻にぼんやりしていると、エリックが淡く微笑み丁寧に服を整えていく。
素直に身を任せて感じるまだ高い体温に、改めて自分はあるべき処へ還ってきたのだと思えた。
「―― エリック、……ひとつ、お願いがあるの…」
髪を梳いていく長い指が気持ちよくて、目を細め、小さく呟く。
「何でございますか?」
「これからは私のことを、名前で呼んでほしいの」
「え…」
ごくシンプルな願いも、彼にとっては青天の霹靂に等しかったのかもしれない。
予想以上の驚きぶりにくすりと笑ったコレットは、やや悪戯っぽい口調で続けた。
「だってエリックはもう、私の執事じゃないでしょう?」
「…で、ですが……」
「“様”もつけちゃ、ダメよ。
旦那様になる人が、私を呼び捨てにしてはいけない理由はないわ」
先手を打ち、わざと軽く拗ねてみせる。
“お嬢様”。その一言に込められた慈愛は、充分に分かっているのだけれど。
ふたりで遠くに逃げる。―― それは長い間彼が囚われていた、身分(かべ)を越えることだから。
主でも仕える者でもなく一緒に未来へ踏み出す為に、この我が侭を…どうしてもきいてほしかった。
「………。コ、…コレットさ…」
既に習い性となっているのだろう。幾度も迷った末にようやく口を開いたものの、やはり敬称を付けかけ止まる。
再び言い淀んでしまった唇に、コレットはそっと人差し指を当てた。
「もう一回ちゃんと、……呼んで…?」
ねだる声が意図せず掠れ、いつのまにか自分もかなり緊張していることに気付く。
ふっと表情を和ませたエリックは喉の奥を鳴らして笑い、深呼吸をしてゆっくり頷く。
僅かにはにかむ眼差しに今度は期待で鼓動が早まり、同じように深く息を吸い込むと、綺麗な空の色を見つめた。
「コレット…」
「―――」
大好きな人に呼ばれた名前は、一際甘く心に響いて。
嬉しくて…幸せで思わず涙ぐむ。
「コレット、……愛しい私の…コレット…」
「私も…、エリック……愛してるわ…」
離れていた日々の分も、飽くことなく交わす口付け。
触れるたび溢れてくる言葉を手繰るように絡んだ指がくすぐったくて、自然に瞳を見合わせ微笑った。
終わりを知ることで始まった、関係はあまりに脆く。細い橋は崩れ落ちて、一度ははぐれてしまったけれど。
たくさん遠回りをして辿り着いた向こう岸で、こうしてまた、出逢えたから。
何処より安心できる場所。
誰より何より、心を身体を、―― 全てを満たしてくれる存在(ひと)。
彼の言う通り、愛情が、武器や盾にならなくてもいい。
幼い頃、初めて信じた微笑みと大きな手。
この温もりを迷わずずっと繋いでいけば、強く確かな愛(おもい)は新たな標(しるべ)になる。
酷い嵐が吹き荒れる夜にさえ、
伴に在る至福はきっと、行く先に…やさしい光を灯すから。
fin.
2010,04,18
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