はじめまして。エリック・アンダーソンと申します。
お嬢様の執事になる為、この城に参りました。
エリックが私のしつじ…になるの?
はい。今日からお傍でお仕え致します。
泣いていたのだろうか。俯いた少し赤い目は、幼さにそぐわぬ愁いに昏く沈んでいて。
それでも差し出した手を握り返してくれた小さな温もりを、
はにかんだ笑顔を、
きっと一生、忘れない ――― 。
「お嬢様」
大きな木にもたれ、スカートの上に本を広げたまま眠っているコレットの肩をそっと揺する。
「お嬢様、起きてください」
「エリック…?」
「寒くなってきましたので、ここでお昼寝をしていては、風邪を引いてしまいますよ」
「…そうね、ありがとう」
まだ眠たそうにしつつも素直に本を閉じた、華奢な手を取って立ち上がる。
薄陽の下(もと)で、仄かな馨香を纏う冷えた風が過ぎていく。
花園を後にすると、雲は更に厚く広がり出していた。
「この本のせいだろうけど、おもしろい夢を見たわ」
「どんな夢ですか?」
細い両腕に抱えられた表紙に軽く目を落とす。
不思議な国に迷い込み、風変わりな住人達と様々な冒険をする。主人公の少女が、木の下で見ていた夢の物語だ。
城に来る前に読んだことがある。記憶を辿っていたエリックにまず返ったのは、小さな思い出し笑いだった。
「タキシードを着たましろを追い掛けていったら、森でエリックやクレア先生とお茶会をしていたの。
ましろがクレア先生を手伝って一生懸命私の席を用意してくれて、エリックがお気に入りのティーカップを並べてくれたんだけど、花の香りの紅茶を注いでもらった処で、目が覚めてしまって…」
急に拗ねた口調と横顔に、声を殺しながらも思わず笑みが零れてしまう。
とにかく傍にいたがり、「エリックじゃないとダメ」が口癖だった昔ほどではないが、こうしてコレットが甘える相手は、今も自分一人だと知っている。
その場で立ち止まり、こちらもわざと大袈裟に、ゆっくりと頭を下げた。
「それは…申し訳ございませんでした。
お城に戻ったら、すぐにお茶をご用意致します」
「夢の中でできなかったし、今日はエリックとお茶が飲みたいわ」
「…そうですね。では本日は、ご一緒させていただきます」
「ありがとう、エリック。大好き」
「―――」
一転して弾む声音に、僅かに曖昧さを含む微笑みで応え、再び並んで歩き出す。
いつのまにかすっかり灰色に覆われた空を仰ぎ、今夜は雨になるかもしれませんねと、さりげなく話を逸らした。
凪いだ海より静やかな年月(とき)の流れの中で、けれど敬愛する主は、日々美しく成長していく。
特に最近は、あどけない仕種や表情も、以前とは何処か違っているようで。
―― いつの頃からだろう。
全幅の信頼と親愛が込められた笑顔の眩さに、時折心を乱されるようになったのは。
向けられる無邪気な好意に、微かな、鈍い痛みを覚え始めたのは……。
不意に揺らぎ、惑う…。この変化が秘める希みに気付いてはいけないと、理性が発する警告に、自問はまた掻き消されていく。
知らぬ間に、だが確実に移りゆく、愛情(おもい)の意味は最早、過去(もと)に戻せないのだとしても。
出逢ったあの日胸に抱いた、最上の願いは決して変わらない。
ただ、あなたの幸せを…。
その為だけに、
自分はここにいるのだと。
fin.
2010,11,20
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