天秤

 息を呑む。

 あの頃よりほんの少しだけ大人びて、でも、
 長い髪も赤いリボンも、
 記憶の中の、あどけない面影のままなのに。

 大きな瞳に浮かぶのは、残酷な、見知らぬ者を映す色で。

      本当に…忘れてしまったのか?

 “忘れた”のではなく、“忘れさせられた”のだと、……判っている。
 だが理屈で割り切れない心は、耳障りな音を立てながら軋んでいく。

      ただ夢中で交わした想いは、
      不器用でまだ幼く、

      それでも、何より真実(ほんとう)だったのに…。

 姫をたぶらかしたと、次期魔王の相手として相応しくないと…。
 人間界に永久追放した者に、今更魔界を守れとは、余りにも虫が良過ぎる。
 受け入れたとしてもおそらく、希みが叶えられることはない。
 そんな不信が拭えずに、やってきた使者をにべもなく追い返した。

 だからこそ、

 忘却の事実を容赦なく突き付けてくる、
 魔王になるのは当然だという口調は酷く、癇に障った。

   薄情者!

 ―― それは、……おまえの方だろう…?
 言えない代わりに、口を衝くのは辛辣な侮蔑の言葉ばかりで。

      初めて出逢った日のように、
      一目見た瞬間にまた、恋に落ちた。

      だけど俺を忘れたおまえを、
      今すぐ、許すこともできなくて……。

 憎しみに良く似た感情(もの)が胸に、広がっていく。

 けれど声も笑顔も、
 素直さも、見掛けに拠らず気の強い処も、
 惹かれ合い求め合った昔(とき)と何も、変わっていないと…、
 気付くたび感じる、愛しさを止められない。

 今度こそ、ずっと傍で大切に守り抜きたい気持ちと。
 いっそこの手で、滅茶苦茶にしてやりたい気持ちと。

   アーシェ…

 おまえの名前を呼べない、
 俺の心は、これからどちらへ…傾くだろう?

fin.

2008,11,03

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