半分開けた窓から、時折肌寒い風が吹き込んでくる。
湯気の立つマグカップを笑顔で受け取る細い指はもう少し冷たくなっていて、セイジュはその肩にしっかりと毛布を掛け直した。
「…あれ? セイジュ、このミルク…」
一口飲み、驚いたようにアーシェが顔を上げる。
すぐに気付いてもらえたのが嬉しくて、ややはにかみながら微笑った。
「イチゴジャムを入れてみたんだ。
結局猫ちゃんに作り方を聞きそびれたままだったけど、砂糖でも蜂蜜でもないし…。
君が好きなものを考えたら、イチゴジャムかなって。当たりだったね」
「うん…。甘くて、すごく美味しい…。
ありがとう、セイジュ」
返事の代わりに、ほんのりと赤みの差した頬にそっと唇で触れる。
揃いのクッションに座り、ふたりでひとつの毛布にくるまると、どちらからともなく寄り添い合った。
並んで仰ぐ高く澄んだ空に、赤銅色の丸い月が浮かんでいる。
いつもなら月光に隠れてしまう小さな星々は、深い紫黒の中で密かに瞬いていた。
「あんなに遠いのに、私達のいる処の影がちゃんと映るなんて、なんだか不思議だね」
「そうだね。
でも僕は、もっと大きな不思議を知ってるよ」
月食に感歎の吐息をつく横顔を見遣り、そんな言葉がふと零れる。
振り返った眼差しは無邪気な好奇心に満ちていて、がっかりさせてしまうかなと懸念しつつも続けた。
「それはね、君が、僕の傍にいてくれること」
「セイジュ…?」
「ずっとずっと…大好きだった。何より愛しい君が、僕の奥さんになってくれた。
―― 僕にとってこれ以上、大きくて素敵な不思議はないよ」
やはり期待通りの答えではなかったのだろう。最初は意味を計り兼ねていたようなアーシェの表情が、次第にやわらかな笑みになる。
深呼吸に似た瞬きの後、改めて向けられた瞳。
こちらを見つめる蒼色には、疑うべくもない愛情が映っていた。
「あのね、セイジュ…。それは全然、不思議なことなんかじゃないんだよ」
「え…?」
「だって、あの時セイジュが命懸けで守ってくれたから、私は今、ここにいられるんだもん。
私がこうやってセイジュの傍にいられる幸せは、セイジュが守ってくれたものなんだよ」
「……アーシェ…」
他にどうしていいか分からずに、マグカップを床に置き、華奢な身体を両手で抱きしめる。
魔界での初恋の記憶がないのだから、“不思議に思う理由”がそのまま伝わらなかったのは無理もない。
寧ろ返答(そこ)に互いの存在しか感じられなかったことが、もう彼女の内(なか)には、無意識にでも過去にこだわる気持ちがないのだと教えてくれていた。
「ほら、皆既が終わったみたいだよ」
自然に甘えて預けられた額に淡いキスをして、再び見上げた空を指差す。
繊細な生光は、それでも静やかに、深更の闇をまた溶かし始めていた。
「魔界で晴れてるのに月の光がなくなっちゃったら、大騒ぎになるだろうけど…。
人間界の空は、いろいろなことが起こって楽しいね」
「どれも、束の間で消えてしまうものだけどね。
その一瞬の全てを、君と大切に過ごしたい…」
「うん…。ふたりで一緒に、ね」
毎夜形を変え、時にこうして、希有な姿を覗かせる。生まれ故郷とは違う月に、変わらない願いを託す。
陽射しも風も雨も、同じ日は二度とないけれど。
儚いからこそ、鮮やかに刻まれる、
有限だからこそ、愛おしい瞬間を。
これからも君と…重ね続けていけるように。
fin.
2009,12,23
現在文字数 0文字