この名前を、
何度でも、繰り返し呼んでほしい。
想い出(かこ)と明日(みらい)を同じ重さで見つめる、
揺るぎないその声で。
大した意味のない会話(とき)でいい。
それが“自分”だと思えるように。
科学(ひとのて)で造られた生命(もの)でも、
今は自分の意思でここに居ると確かに、思えるように……。
背後から覚えのある、少しばかり危なっかしくて慌しい靴音が近づいてくる。
以前見た、荷物で両手が塞がったまま走る姿が目に浮かぶ。
今日は取り立てて急ぐ用はないはずだから、おそらくこちらの後ろ姿を認めて、駆け寄ってきているのだろう。
知らん顔をして行ってもいいか、などと思いながらも、足は無意識に止まりかける。
だが、
「ジェットー!!」
こうも盛大に呼ばれては、気恥ずかしいやら何やらで、結局いつもの顰め面でリーダーを振り返った。
「…道端でデカい声を出すなよ」
「だって、ジェットの方が、足が速いんだもの。
声を掛けなきゃ、追い付けないでしょ?」
ごく軽く息を切らせたヴァージニアは、抗議口調で反論する。
ジェットは、呼ばれる前に立ち止まろうとしていたことはおくびにも出さず、表面上は何処までも素っ気なく言った。
「同じ宿(とこ)に戻るんだから、追い付かなくても関係ないだろ?」
踵を返して歩き出す。それでも歩調は、彼女に合わせて先刻よりやや緩めていた。
どうせ言い負かされるのだから、このくらいの譲歩は先にしておいた方が、長々と下らない口論をしなくて済む。
これは妥協以外の何物でもないが、見方を変えれば進歩と言えなくもない。
事実、チーム結成当初に比べれば、年少組の口喧嘩は明らかに減少傾向にある。
ゼロにならないのは、気の短い処のある同士だから仕方ないのだろう。
「おい、ヴァージニア。そっちの荷物を寄こせ」
不意に立ち止まり、問答無用で、胸の前に抱えられていた大きな包みを取り上げる。私物ならともかく、この大荷物はどう見ても消費アイテムの類だ。チームの物なら、効率を考えた方が良い。
きょとんとしたままのヴァージニアには、代わりに自分が持っていた、桃缶の入った片手で足りる袋を放った。
「あ、ありがと」
「お前にこっちを持たせてたら、俺は更にちんたら歩かなきゃならないからな」
「…お礼は、もっと素直に受け取ったら?
だけどジェット、いつのまにか名前を呼んでくれるようになったね」
「……そんなの、いちいち気にしてねぇよ」
忙しなく移り変わっていた表情が、無邪気に喜ぶ笑顔に落ち着く。
意外にも鋭い追及だったが、ジェットは敢えて取り合うことなく歩を進めた。
本当は、きっかけはちゃんと覚えている。しかし、絶対に話したくないのでそのまま白を切った。
自分の出自を、まだ完全に受け入れられずにいた頃。元は別の人間の為に付けられた名で呼ばれることに、一度感じてしまった違和感は、不意に頭を擡げては喉の奥を締め付けた。
自分が呼ばれていると認識できずに、意図せず無視する形になったこともある。
最初は聞こえなかった振りでもすれば良かったが、度重なれば流石に不審がられてくる。
そうなると、ただでさえ普段から姉さん風を吹かせているヴァージニアが、黙っているはずがない。
どうかしたの、どうもしない、と散々押し問答した末に、
ジェット、と目の前で繰り返されることが、無性に腹立たしくて思わず、声を荒げた。
それは、“俺の名前”じゃない…ッ!
とっくの昔に死んだ、顔も知らない子供の名前だ……。
八つ当たりだと、分かってはいた。
その時に、
でもね、と続けられた淋しげな微笑み(えみ)は、今でも良く憶えている。
わたし達にとっての“ジェット・エンデューロ”は、あなただけよ。
誰かの代わりなんかじゃない…。
偽善的な言葉ばかりだと思った。
だけど、こいつは…。
そんなことを恥ずかしげもなく、真っ正面から言ってのける奴だから。
そこに嘘や、見せ掛けの慰めはない。本当にそう思っているのだと、知っているから…。
名前を呼ぶことと、呼ばれること。
煩わしいだけだったものが、この瞬間(とき)から少しだけ、変わり始めた。
気が付けば、何気なく色々と、“想い出して”いることも増えた。
しかもそんな回想(じかん)には、ほとんどと言っていいくらいヴァージニア(こいつ)がいる。
いつだって騒々しいからだとか、他人のことにもすぐに首を突っ込みたがる度し難いお節介だとか、そういったモノでは片付けられない想いがあることは薄々、自覚している。
ウェルナーとの係わりで、まるで弟のように扱われる時があるのも面白くない。
だが現状は我慢がならないほど、居心地が悪いわけでもない。
他愛ない話を続ける横顔と、最近ようやく見下ろせるようになった肩先に、覚られぬようにちらりと目を遣る。
まぁ、こいつはそーゆーことには鈍そうだし、別に今すぐ何か行動を起こす必要もないか…。
自分自身でも未だ掴みきれていない感情に、わざと持って回ったそんな執行猶予を付けて。
「…ジェット? …聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
こちらをじっと覗き込んだ青い瞳に、ジェットは怒らせない程度の投げやりを装いながら応えた。
聴いている。―― いつでも。
想い出を持たなかった心に、何よりも毅く届いたその呼び声(こえ)を。
そして、
ヴァージニア、と、
複雑で厄介で、けれど特別な感情(きもち)で口にする名に、
きっと、
これから先の、戦う理由も生きる理由も、
―― 全てはそこに、繋がっていく。
fin.
2007,07,22
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