想い接ぐ夕闇に

 髪を揺らす風の冷たさが、幾つもの次元(たび)の想い出を当て所もなく彷徨っていた心にも届く。
 ふと顔を上げると、砦はいつのまにか傾き始めた陽で、鮮やかに彩られていた。
 空も地も、澄んだ朱(あか)へと静かに染められていく。
 見惚れていた光の中から不意に名前を呼ばれて、アヴリルは眩しげに目を細めた。
「…ディーン? どうしたのですか?」
「いや、アヴリルと話したいことがあったんだけど、昼メシ前に出掛けたまま戻ってこないって聞いたからさ。
 なんとなくだけど、ここにいるんじゃないかって…」
「ちょっと考え事をしていて…。
 ごめんなさい。日も暮れてしまいますし、村に戻りましょう、ディーン」
 心配そうな表情に微笑んで詫びると、やや足早に歩き出す。
 理由を問いたげな視線を感じつつ横を通り過ぎると、後ろから強く手を掴まれた。
 ヨトゥンヘイムが暴走した、“あの時”と同じ、
 ……違う。それは、この時間軸(ファルガイア)ではないのに…。
「………ディーン…?」
 記憶の混乱と動揺を辛うじて飲み込んで、半分だけ振り返る。
 正面からその瞳を見るのが何故か、怖かった。
「さっきもそうだけど、最近アヴリル、無理して笑ってないか…?」
「………」
「話したかったのもそれなんだ。
 どうしてなんだ? 何かあったのか?」
「無理なんてしていませんよ」
 否定しながら逆に、彼の言う通りだと覚る。
 こちらが立ち止まったことで緩んだ手を、できるだけ自然に引いて。
 そのまま背を向けてここから逃げ出したい衝動に駆られたが、真剣な顔つきに身体が動かなかった。
「ウソだッ!
 オレ、鈍いってよく怒られてるけど、アヴリルが今ウソをついたのは判る…」
 ディーンは悔しそうに拳を握り締めると、腕を後ろに振り払う。呼応するように木々を鳴らす夕風に、コートとマフラーが大きく翻った。
「…何でだよ…ッ!
 あんな涙を流していたループがやっと終わったのに、アヴリルがまだ苦しまなくちゃならないなんて、そんなの絶対におかしいだろッ!?」
「ディーン…」
「ゴメン…。アヴリルに怒るのは変だよな…。
 ……もしかしてアヴリル、自分の償いは終わってないって、思ってるんじゃないか?
 オレには今も、アヴリルが泣き続けてるように見えるんだ…」
「………」

      ―― どうして、いつもあなたは…。

      やさしい、毅い言葉で、
      辛い気持ちを閉じ込めた壁さえ、撃ち抜いてしまうの……?

 無言は肯定を意味してしまう。だがどう答えても見通されそうで、アヴリルは微動だにすることができなかった。
「オレは、ループのことを全部知ってるわけじゃない。
 でも、単純かもしれないけど、現代に残れて、タイムパラドックスだっけ? それが起こっていないなら、ファルガイアがもうアヴリルを赦してるってことだと思う。
 だから後は、アヴリルが自分を赦すだけなんだ」
「…わたくしがわたくしを、……赦す…?」
 思いも寄らない切言(ことば)だった。
 赦罪の日は訪れることなどなく、
 届かない未来への憧れを失くせないまま、それでも永久に、閉じた輪の中を廻(めぐ)るのだと思っていた。
 こうして現代(ここ)にいられるのは、有り得なかったはずの奇跡だから。
 自らの為に、それ以上の何かを希むことも憂うことも、罪過に等しいと、無意識に心を戒めていたのかもしれない。
 “知らない時間”を生きることに感じている不安にも、目を逸らし続けて ――― 。
 揺るぎない眼差しは、有らゆる痛みも迷いも消し去って、大きく頷いてくれる。
 浮かびかけた涙を隠すようにゆっくりと瞬きすると、束の間、甘い熱が触れる。
 唇を重ねられたのだと気が付いた瞬間に、ディーンは真っ赤な顔で勢いよく後退ると頭を抱えた。
「……うわーッッ!? 何してんだ? オレ…。
 ゴ、ゴメン、アヴリル…。嫌だったよな、いきなり…」
 狼狽して、落ち着きなく手足を動かしてはやめる。
 けれどしばらくすると、青い双眸は再び、ひたむきにアヴリルを見つめた。
「オレ、アヴリルのこと、……大好きなんだ。
 だから、前にもここで言ったけど、アヴリルが泣かない為なら何だってする。
 頼りないかもしれないけどさ、オレを信じてほしいんだ…」
 ディーンは、そこで一度言葉を切る。一向に返事がないのを誤解したのか、酷く極まり悪そうに頭を掻いた。
「…う、まぁ、あんなことされた後じゃ、全然信用できないかもしれないけど…」
「―――」

      ……赦されるのですか…?

      同じ時代に生きている今、
      あなたに想いを伝えることが。

      声にして、
      願っても、…いいのですか?

      その温もりを、
      いつでも傍で、感じていたいと…。

 知らぬ間に自分で作り出していた氷壁が、涙になって溶け出していく。
 滲む視界に、更に慌てふためいているディーンが映る。
 困らせたくはないのに、零れ落ちる雫は止め処なく頬を濡らして。
「ア、アヴリル!? …ゴメン、ほんっとにゴメンッ!!」
「……っ…」
 違う、という一言さえ声にならない。
 ただ首を振って、
「……ディ…ン……ッ…!」
 何かに背中を押されるように、一歩踏み出して思わず、手を伸ばす。
 以前より少し広くなった胸が、驚きつつもしっかり受け止めてくれる。
 そして、
「……大好きです…。わたくしも、ディーンのことが大好きです…」
 これまでは別れと引き換えだった、TFシステム前での告白(ことば)。応えに向き合うことを恐れて、冷たい壁の中に封じた想いが、堰を切ったように溢れ出す。
「……アヴリル…」
 肩と髪を包んで、強く、抱きしめてくれる両腕。
 耳元で名を呼ぶ、いつもより抑えた囁きは、心奥を熱く震わせて、最後の氷晶(かけら)も跡形なく溶かしていった。
「アヴリル、こうしていると頑張る力が湧いてくるって言ってただろ?
 オレはアヴリルに、ウソじゃなく、笑っててほしい。
 世界中のヒト達が何て言っても、オレがアヴリルを護る。ゼッタイに、護り抜いてみせるから…。
 って、うわ、……なんかオレ反対に、アヴリルを泣かせてばかりいる気がするんだけど…」
「……でも」
 肩越しに見える空は、西に僅かな夕映えを残して、穏やかな濃藍へと移り変わっていく。
 夜の暗影にすら、怯えた日々もあったけれど。いま密やかに拡がるこの闇は、淡い甘露を含むようにやわらかで。
「こんなに嬉しくて、幸せな涙は初めてです…。
 ―― ありがとう、ディーン…」
 温かい腕の中で、本当に久しぶりに、偽りのない笑顔になる。
 ぎこちない指が、照れながらそっと涙を拭ってくれた時、
 永い間意識(こころ)を縛り付けていた重い鎖が、音もなく全てほどけていくのを、アヴリルは深い安らぎと伴に感じていた。

fin.

2007,11,13

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