Heavenly- 2 -

「こんな時間に飛んでいる蝶って、初めて見ました。なんだか幻想的ですね」
 心地好い声と、微かだが蝶のものとは思えない羽音を背後に聞いて、振り返る。彼が唯一逢うことを希む少女が、幻ではなくそこにいた。
「アリア…」
「こんばんは、クライヴ」
「……どうした?」
 微笑む天使を、クライヴは平静を装いつついつものように迎える。
 翼を畳んだ彼女が、用件を切り出しかけた時だった。
「―――!」
 戦闘が日常の中にある彼の研ぎ澄まされた五感が危険を警告する。
 夜陰に紛れ蠢く人成らざる者の気を察知したクライヴは、即座に剣を抜き、片手で天使の身体を強く引き寄せた。
 前触れもなく抱きしめられたアリアは、声もなく、狼狽えたように彼を見つめる。しかし一変した周囲の空気に、身動きをやめ、目線だけで辺りを見回した。
 明確な害意を持つ者がこちらを注視していることに、彼女も既に気が付いているようだった。
 通常地上では、天使の姿は勇者にしか捉えられない。とはいえ敵が強力な魔力を持っている場合には、それは必ずしも当てはまらなかった。現に今、敵意は明らかにアリアに向けられている。
 堕天使に与する一派には、地上を平和にする命を受けた天使は不愉快な存在でしかない。ましてやクライヴを闇の世界へと引き擦り込もうとしているアンデッド族にとっては、目障り以外の何物でもない。
 そうした悪意を、以前から彼女は感じ取っていたのかもしれない。
 邪魔な天使を排除する。それは常に起こり得る事態だったが、自分がクライヴの負担になっていると責任を感じているのだろう。腕の中で、アリアはきつく唇を結んでいた。

   君のせいじゃない…。

 そう言いたかった。
 これは、彼が天使を愛していると、―― 天使が彼の最大の弱点でもあるのだと、不用意にブラスに知られてしまったことに起因している。
 とはいえそれをここで、彼女に説明するわけにもいかない。
 どうにか、彼女をここから遠ざけたかった。
 彼の眼前で、愛する天使を死に至らしめる。奴らが望んでいるのは、その憤怒と絶望により彼が血に狂うこと。逆に考えれば、偶発的な戦闘を除けば、彼のいない処でアリアがアンデッドに付け狙われることはない。
 奴らの目論みが判っていても、敵の位置がはっきりとは掴めていない現状では、無闇にこの場を動くことはできなかった。転移魔法という手もあるにはあるが、援護魔法に比べれば、彼女は不得手と言わざるを得ない。却って発動までにかかる時間が、相手に好機を与えかねなかった。
 クライヴの視界を妨げる形になっていた両翼が、不意に消える。
 それはアリアも、彼の心情はともかく、戦況については的確に把握していることを示していた。
 不自然なまでに閑散とした木立の中で、緊迫した時間が重く流れていく。
 互いが互いの出方を伺い、数分が過ぎた頃だった。
 上空で風が鳴る。木々の枝が大きく揺れる。
 続いて足元の草を勢いよくなびかせた強風は、邪心に満ちた気配をも一掃した。
 注意深く周辺の様子を探る。
 鳥や虫の声が徐々に戻り始めると、表には出さないものの、クライヴはやっと胸を撫で下ろした。
「―― 消えたか…」
「……そうですね」
 相槌を打ったアリアが顔を上げる。
 至近距離で瞳が合う。途端に、天使は頬を真っ赤に染めた。
「あ、あの…」
「ああ、…すまない」
 本当は、まだ抱きしめていたかった。
 ただ彼女から、拒絶の言葉を聞きたくはなかった。そちらの気持ちの方が強くて、だからこそ彼は静かに腕を放す。
 対するアリアは、両手で火照った顔を隠すようにして頭を下げた。
「…いえ、……すみません。ありがとうございました」
 それきり俯いてしまった天使から目を逸らす。
 冷たい夜風と、気まずい沈黙が通り過ぎていく。
 クライヴは、ほんの数秒前まで確かに彼女に触れていた手をそっと見遣った。
 ―― 離れて初めて、実感する。
 人間(ひと)と何ら変わらない彼女の体温を。そして、心音を。
 住む世界が違い過ぎる。
 幾度もそう言い聞かせた心がざわめくのは、こんな時。
 それでも……。
「それで、今日はどうしたんだ?」
「…え? えっと…」
 空色の瞳が、再び彼に向けられる。
 硬い表情はすぐに笑顔に変わり、花が零れるような微笑みに、ふたりの間にあった気詰まりは緩やかに消えていった。
「アリア?」
「クライヴ、肩の処、見てください」
 指差された通り左の肩を見ると、先程の蝶が止まっていた。そうして蝶はそこで二度三度ゆったりと羽ばたくと、ひらりと夜空に舞い上がる。
 月光に照らされた姿は愛らしく、けれど誰の手中に納まることも潔しとしない気高さと美しさを持っていた。
 そう、まるで、―― 天上に生きる者のように。
「月に向かって飛んでいるみたいですね。綺麗…」
 見惚れるアリアの声を、クライヴは瞳を閉じて聞く。
 小さな白い翅の行く先をしばらく眺めた後で我に返ると、ごめんなさい、と天使は勇者を振り向いた。
「今日は、事件の解決をお願いしたいと思って伺ったんです」
「場所は何処だ?」
「ウルのディナルです。村を占領したティタンを退治していただきたいんですが…」
「判った」
「ありがとうございます。それで、あの、……同行してもいいですか?」
 先刻の出来事を気にしているのだろう。アリアは最後に若干小声になって付け足す。
 しかし、彼の答えは決まっていた。
「―― ああ。…行くか?」
「はい」
 アリアは天使の証である純白の翼を現すと、ほっとしたように微笑う。
 本当に嬉しそうな笑顔は、クライヴの中に甘さと苦さを同時に落とす。
 先に歩き出し、背中から聞こえるやわらかな羽根の音に耳を澄ませながら、空よりも遠くにある彼女の住む世界を見上げた。
 伴に、闇に堕ちること。
 逢えずにいる間、それを一度も考えたことがなかったと言えば、嘘になる。
 彼女の教えてくれた未来(みち)を閉ざす、溺れそうな、―― 昏い誘惑。
 だが、奴らは知らない。
 何処か歪んだそんな独占欲は、他でもない彼女の微笑みを目にした瞬間に、泡沫の如く消えていくことを。
 どんなに欲しても、きっと、闇に染まった手で彼女に触れることはできない。何があっても、絶対に、……壊せない。
 判っている。
 無理矢理心を失くした抜け殻だけを得ても、意味はないから。
 天に向かっての、それは冒涜と呼ぶのかもしれなくても。
 欲しいのは、有りのままの君の全て。

fin.

2002,08,04

Heavenly 1

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