lose- 2 -

 目覚めると、嫌な汗をかいていた。
 眠りの中に視た過去は鮮明過ぎて、それから覚めた後になってもなお、正常な呼吸を阻害する。
 起き上がる気力さえも奪われて、クライヴはそのまましばらく乱れた息を繰り返していた。
 あれ以来、あの村に足を踏み入れたことはなかった。
 昨夜偶然にも近くの道を通り掛かった時、天使が荒れ果てた家々に目を留めることがなければ、一生そうしていただろう。
 他にも、アンデッドに襲われた地域は、辺境では数知れない。
 だがその中でも類を見ないほど甚大な被害に、教会が然るべき役割を終えても近寄る者すらなく、打ち捨てられた村はそうして、更に無残な廃墟と化したのだという。
 ―― 何故、師のことまで話してしまったのだろう…?
 別に天使に尋ねられたからといって、全て正直に答える義務などない。
 アンデッドの襲撃で壊滅したと、返答は事実のみで充分だったのに、それが自分でも不可解だった。
 尤も、天使と交わしたやり取りに後になって戸惑いを感じるのは、今回が初めてではないのだが…。
 ようやく、鉛のように重い身体を起こす。
 ふと覚えのある気配を感じてそこに目を遣ると、案の定、窓を軽くノックする音が続いた。
 昨日の今日だ。このまま無視していれば、彼女は今夜の“勇者への訪問”を諦めて帰るだろう。
 分かっていながら、立ち上がる。
 無表情で窓を開けると、厚い雨雲が一面に垂れ込めた夜空の元に、闇を穏やかに溶かす仄かな光を纏う天使が佇んでいた。
「こんばんは、クライヴ。ここで少し、お話できますか?」
「…何だ?」
「地上で起こる事件に予想以上に堕天使の影響が見受けられるので、ラツィエル様が、勇者の皆さんにお渡しした装備品のことを気に掛けてくださってるんです。
 なので、何か不都合がないか、お聞きしようと思って…」
「特に問題はない」
「そうですか。それならいいのですが…」
 杞憂だったことに安堵したのか、アリアは小さく息をつく。
 できるだけ彼女の姿を視界に入れないようにしていたのに、その瞬間(とき)不意に目が合って。
 反射的に顔を背けたが、それが却って逆効果だったらしい。
 アリアは今の空模様とは正反対の澄んだ青の双眸で、心配そうに彼を見つめた。
「…クライヴ、顔色が優れないようですが、もしかして体調を崩しているのではありませんか?」
 そして彼女は、熱でも測ろうとしているのだろうか。窓越しに手を伸ばす。
 だが、
「―― 触るな!!」
 細い指が届くより先に、クライヴはそう叫んでいた。
 突然の激しい語調に、天使はびくっと身を竦ませる。
 俯いた表情(かお)は分からないが、余程怖かったのかもしれない。狼狽えつつ引き、胸の前で重ね合わせた手が微かに震えていた。
「………」
 触れてほしくなかった。―― それは間違いない。
 だからといって、あそこまで声を荒げる必要があったのかといえば、否(いな)と言わざるを得ない。
 構うな。感情を含まず告げれば、それで済んだはずだ。
 しかもあれは、怒りではなかった。
 では何だったのか。幾ら考えても、納得のいく答えを見付けることはできなかった。
「……嫌な夢を見ただけだ。別に体調は悪くない…」
 内心苛立ちめいたものを感じながらも、クライヴはこの天使に係わる数々の自問を無視し、敢えて淡々と言葉を続ける。
 予想に反して、アリアはすぐに顔を上げた。その様子が取り立てて、普段と違っていたわけではない。
 それでも、空色の瞳を見た瞬間に気付いてしまった。
 先刻の彼女は怯えていたのではなく、涙を堪えていたのだと…。
 他人が自分の言動をどう受け取ろうと関係ない。これまでもそうやってきたのに、今日に限って胸の奥から、酷く苦い気持ちが広がってくる。
 そしてそれが後悔なのだということは、彼自身も自覚していた。
「ごめんなさい…。私ちょっと、お節介しすぎですね。
 今夜は、これで失礼します。
 ……クライヴ、あの、私これからもこうして、あなたの処に伺ってもいいですか…?」
 天使はほんの少し視線を落として、遠慮がちに口を開く。
 彼女に問われるまでもなく、自分から、もう来るなというつもりだった。
 なのに…。
「…勝手にしろ」
 また無意識に、そんな、言葉が出ていた。
 アリアもまさか、肯定的な即答が返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。
 一度ゆっくりと瞬きをした後で、天使はありがとうございます、とやや首を傾げて微笑った。
 微風によって起こる密やかな葉ずれに似た、既視感が心を揺らす。
 そういえば勇者を引き受けた時にも、彼女は、同じ仕種で微笑んでいた ――― 。
「………」
 いつものように一礼して彼の前を辞する天使に、今度は無言を貫き通す。
 地上のどんなものより純粋な白を持つ両翼が灰色に煙る空に消えると、ほぼ同時に、細く冷たい雨が降り始めた。
 思えばこんな風に、怒りとは別の、正体も掴めず時に制御もしきれない感情が生まれるようになったのは、彼女と出会ったあの夜からだ。
 自分の中で彼女の存在とは一体、どんな意味を持っているのか。図り兼ねたまま、クライヴは重い息を吐き出した。
 残された僅かな時間で、何としてもやらねばならないことがある。
 他の者の手助けをしている暇など、本当はないはずだ。
 天使との係わりを完全に絶つ方法が、ないわけではない。
 勇者を辞める。そう言えばいいのだ。
 最初は考えを改めさせようと、説得に来るかもしれない。しかし天使も、道楽で地上の守護をしているわけではない。非協力的な者にいつまでも拘っていられるほどの余裕はないに違いない。
 そこまで分かっていてどうして、そんな単純な一言が言い出せないのだろう…。
 徐々に辺りを包み始めた霧の向こうに、繰言のような疑問を投げ掛けながら。
 クライヴは空から降る幾つもの雫を、ただじっと見つめていた。

 孤独を振り切る為に、怒りで心を塗り固めた。
 長い間何者にも踏み込ませなかった領域に、天使は、いとも簡単に舞い降りて。
 いつのまにか、語るつもりのなかった過去までも思わず、吐露してしまう。

 時を追うごとに、彼女への愛しさは増していく。
 けれど。
 これまで特別であった存在は、ことごとく奴らに奪われてきたから。
 彼女が“大切”なのだと、気が付いてしまいたくなくて…。
 いっそのこと、奴らの害が及ぶ前に、彼女の方から去っていってくれればとも思う。
 それでも潜在意識の内(なか)では、誰より、逢いたいと願っているから。
 唯一の繋がりである勇者という立場を、自ら切り捨ててしまえない。

 自分にとって彼女は、綺麗な“光”そのものだから。
 師を殺した感触が生々しく残る身体に、触れさせたくはなかった。
 真っ白な聖なる少女(ひと)を、血の色に穢してしまいそうで…。
 実際にはあの瞬間、まるで赦されざる罪のように、何よりもそれを懼れていた。

 様々に形を変え、混迷を深めていく感情(おもい)。
 次々に生まれる自分自身への問い掛けも、堂々巡りのような矛盾も、本当は全て、たった一つの希みから始まっている。

 これから、
 何があっても、何を知っても。

      君だけは、
      どうかずっと…、“傍にいて” ――― 。

fin.

2003,12,18

lose 1

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