ホドフレイムを手に立ち上がったクライヴは、部屋の中央に突如として現れた仄白い光に足を止めた。
それは徐々に翼を持つ少女の姿を形作り、空気に溶けて消えていく。
天使 ―― アリアは、大抵の場合その両翼で勇者の元を訪れる。特にクライヴの主な行動時間である夜に、彼女が転移魔法を使ってやって来たことはこれまで一度もなかった。
そして何より、いつもの彼女の気配が全く感じられないのが気に掛かる。
訝しく思いつつも、彼女の訪問自体が不快であるはずもなく、クライヴは剣を傍らに置いた。
こんばんは、クライヴ
常と変わらないそんな挨拶と微笑みを待っていた彼は、しかしアリアを包んでいた光が完全に消えた処で眉を顰(ひそ)めた。
虚ろな視線が、鈍い動きで部屋の中を彷徨う。
くすんだ瞳が自分の前を素通りしていくのを見て、クライヴはまた一歩アリアに近づいた。
「アリア?」
呼び掛けたが、聞こえているのかも分からない。
不自然な間の後で、アリアは焦点の定まらない目でクライヴを見上げた。
「…ここは……?」
「ディナルだ」
「……ディナル」
それは確認というより、単なる鸚鵡返しに過ぎなかった。
クライヴは渋面を更に深め、彼の愛する天使を見遣る。
「どうした?」
背を屈め、瞳をまっすぐに見据えた呼び掛けは、辛うじて彼女の意識に届いたらしい。
ぎこちない瞬きと伴に、桜色の唇が微かに動いた。
「……たくさん魔法を使ってしまったから、天界で休まないと駄目だって、フロリンダに言われて…。
でも、なんだか上手く飛べなくて、だから私、転移魔法で戻ろうって思って…」
ぽつりぽつりと語られる内容の脈絡が掴めない。
憔悴しきった様子を見兼ねたクライヴは、目線を合わせたまま、彼女の両肩を一度だけ強く揺すった。
「アリア、何があった?」
語調を強めた声にアリアはふっと目を閉じ、緩慢に顔を上げる。
ようやくクライヴを映したその双眸から、不意に、先刻までの曇りが消える。
代わりに宿ったのは、深い自責の感情だった。
「―― が、……天竜が、復活してしまったんです…。
アイリーンにとても辛い戦いを強いたのに、私は何もできなくて…っ」
血を吐くような叫びだった。
掛ける言葉が、すぐには見付けられない。
少し前から、気付いてはいた。
アリアは誰かのいる前では、涙を見せることがない。
ただそれは“泣かない”のではなく、置かれた立場故厳しく自分を律するうちにいつか、“泣けなく”なってしまったのだと ――― 。
彼女自身も心に大きな傷を負っているのに、それでもこの地上の守護者であろうとしている姿が痛々しかった。
抱きしめて、彼女の肩に掛かる重荷を代われるなら、そうしたかった。
けれど今、不用意に触れたらそれだけで、壊れてしまいそうで…。
数秒の、だが酷く永く感じられた重い静寂。
これ以上動揺させてしまわぬよう、クライヴはやさしく天使の髪に右手を置く。その手をゆっくりと引き寄せると、アリアの額を静かに胸に当てた。
「泣きたいなら、泣けばいい」
「!」
飾り気のない言葉でも、抱え切れない痛みに麻痺した心を解きほどくには充分だった。
触れた手の先で、彼女が息を呑んだのが分かる。
「……っ…」
消え入りそうな嗚咽が零れる。
華奢な白い指が、しがみつくように彼の服をぎゅっと掴んだ。
そのまま、小さく肩を震わせ声を殺して泣くアリアを、クライヴは理由を問い質すこともなく無言で受け止めていた。
“勇者と天使”という括りでは表すことのできない時間が、いっそ穏やかと感じられるほどやわらかく、過ぎていく。
そうして、戦闘での疲労もあったのだろう。いつのまにかアリアは泣き疲れて、クライヴに寄り掛かるようにして眠ってしまった。
「………」
崩れそうになった身体を支え、翼を傷つけないよう抱き上げてベッドに運ぶ。
閉じられた瞳の端に残る涙をそっと拭うと、まだ温かい雫が指の先から滑り落ちた。
to be continued.
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