チャイムの音に慌てて紅茶の缶を置き、キッチンを駆け出す。
アインスが竜の里に帰省中の為、領内で発生した紛争の調停に単身出掛けたレオンは、帰城予定の夕方を過ぎても戻らず、気を揉むうちに月は青くなっていた。
統率力に優れた領主がすっかり板に付いたレオンなら、今回もきっと事を上手く収められる。
揺るぎない信頼と同時に愛する人をずっと案じていたから、足は自然に急いてしまう。
玄関の重い扉を精一杯早く開けると、くるみは勢いよく一歩前に出た。
「レオ…」
「こんばんは。熱烈に出迎えてくれて嬉しいよ」
「……!」
あげかけた悲鳴をなんとか飲み込み、思わず後退る。
誰と間違えたか分かった上でなのだろう。目の前の青年は可笑しそうに金色の瞳を細めた。
「……リュカ…?」
「そうだよ。
つれないな。先月も市場で会ってるのに、僕のこと忘れちゃった?」
「え、…えっと…」
外見は確かにリュカなのだが、表情や口振り、そして纏う雰囲気が、自分の知る彼とは明らかに違う。
そんな混乱を余所に再び向けられたのは、人懐こい、けれど何処か含みのある笑顔だった。
「蝶の羽、夜は青い月の光に映えて一層綺麗だね。
ねえ、レオンがいなくて淋しいんだ…? 僕が慰めてあげるよ」
「おい、リュカ!!」
意味深長な甘い囁きを掻き消す怒鳴り声と、豪快な足音。
いつのまにか俯き気味になっていた視線をぱっと上げた瞬間に、長身の黒い影が屋敷に飛び込んでくる。
思いきり眉を顰めたレオンはリュカを睨み付け、即座に、有無を言わさず愛妻を背後に隠した。
「何をしに来た!?」
「何って…、酷いな、君に頼まれていたものを持ってきたのに」
対するリュカはあくまで飄々と、脇に抱えていた包みを差し出す。
「遅い時間だけど、手紙の配達で何日か留守にするし、今日中に届けようと思ってね」
「……それは、その…、悪かった」
急にトーンダウンした語調に、極まり悪さと安堵が入り交じる。
ちらりと見えた横顔が気になって身を乗り出したが、間髪容れず身体をずらされ、視界はまた遮られてしまう。
どうやらリュカへの警戒を完全に解いてはいないらしい。
そう覚ったくるみは大人しく、そこで話が終わるのを待つことにした。
「お金は次に来た時でいいよ。
くるみ、僕は一夜限りの遊びも歓迎だから、またね」
「リュカ…!! こいつに触ってもいいのは俺様だけだぞ!」
復活した怒声の半分以上は、ひらひらと振る手が消えた扉に吸い込まれて。
突風が過ぎ去った先を茫然と眺めるのに似た気持ちで、静かに長い吐息をついた。
なんだかふたりとも、リュカにからかわれてたみたい…。
十中八九、あの誘惑は本気ではない。
それでもレオンにヤキモチを焼いてもらえて正直嬉しいのだが、状況がよく分からず、取り残されている感は否めない。
まだ怒りが治まらない風の背中にそっと呼び掛けると、我に返ったようにレオンは振り向いた。
「ああ、おまえ、月が青い時にリュカに会うのは初めてか?」
「うん」
「あいつは夜になると、昼とは打って変わって女好きになるんだ。
夜のリュカには、もう絶対に一人で会うなよ!!」
「う、うん…」
説明が大雑把過ぎて今一つ理解はできていなかったが、迫力に押されて頷く。
今夜は使用人達に先に休んでもらっていて、何より心配が高じて自ら駆け付けてしまったが、普段ならまず、メイドが応対していただろう。
夜に城外を一人で出歩くことはないし、どちらかというと私よりメイドさん達に、気を付けてねって言っておいた方がいいんじゃないのかな?
迷ったが、ここで確認すると火に油を注ぎ兼ねないのでやめておく。
ふとその腕の中にある包みに目が止まると、くるみは疑問を一旦横に置いて微笑んだ。
「でも、探してたものが見付かって良かったね」
「ああ。……これはどうしても、取り戻したかったからな…」
「………」
苦い後悔が滲む声音に、簡単に理由を尋ねてはいけない気がして口を噤む。
それを察したのか、レオンは微かな痛みを残しつつも、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「レオン…?」
「ちょっと来い」
―― もしかして、私に関係があるものなの…?
命令口調だがやわらかく引かれた手に、ゆっくりと指を絡めて。
くるみは繋いだやさしい温もりに導かれるまま歩き出した。
to be continued.
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