ティーサロンのテーブルの上で、太い指がややぎこちなく、丁寧に包みを解いていく。
その中身に目を奪われ、窓から射し込む淡い光がオレンジに視えた気がして一瞬、時間の感覚がおかしくなる。
瞬きすると月は先刻と変わらず夜の色で闇を照らし、隣には、深い愛情を湛えた青い薔薇の瞳があった。
「おまえの鞄に間違いないか?」
「………」
静かな問い掛けに、くるみは深呼吸をしてもう一度しっかりとそれを見た。
全体的にかなり傷んではいるが、ウサギのマスコットも付いている。確かに、魔界に来た日に森で失くした通学用の鞄だった。
まだ声も出せずに頷く。
ほっとしたのかレオンは小さく息をついたが、表情は再び、自戒を映して微かに揺らぐ。
そうして、
「すまなかった…」
思いも寄らない謝罪と伴に、大きな左手がそっと頬を撫でた。
「あの日俺は、おまえが人間界のものに必死になるのが面白くなくて、あんな態度を取った。
だがホームシックになったおまえを見て、そして俺の為に、赤月に身を捧げる意思を貫くおまえを見ていて…。本当に、後悔した……」
唯一、人間界と自分を繋ぐもの。
買ってもらえるかもしれない。笑顔に持った期待は酷薄な一言で粉々に砕かれ、諦める以外になかった。
酷い人。大嫌い。―― かつて本気で抱(いだ)いたはずの憎しみは、けれどもう…胸の内(なか)に在ったかたちを辿れない。
だって全てが、愛しい気持ちに塗り替えられてしまったから。
まるであの日堪えた涙ごと、移し取ってくれたみたいに。
僅かに潤む双眸には、言外の葛藤や苦悩も秘められているようだった。
「それでリュカに…?」
「ああ。その時には既に人手に渡っていたから、買った客を捜してもらっていたのだ」
「でも、他の人から買い戻したなら、あの時よりももっと高かったんじゃ…」
うろ覚えだが、一ヶ月間何人も雇えるとアインスが言っていた。
当時は破格な値段を漠然と認識するしかなかったが、言動の是非はともかく、メイドに易々と買い与えられる金額ではなかったと今では分かる。
おそらく予想通りの反応だったのだろう。レオンは鞄をゆっくりとくるみの前に置き、やわらかく微笑った。
「気にしなくていい。これは元々おまえのものだ」
「―――」
限りなくやさしい口調(ことば)に、見つめ返す眼差しが次第にぼやけていく。
泣いていると気付いたのは、触れていた手が頬を拭ってくれたからだった。
「くるみ…」
「嬉しいの…。鞄が戻ってきたこともだけど、レオンが私の為に取り戻そうとしてくれたのが一番、嬉しいの」
感極まり、ありがとうと何度も口にするたび、新しい涙が生まれてしまう。
静やかな笑みのまま、レオンは何も言わず指先と唇で繰り返し、零れた雫を掬ってくれる。
落ち着いた頃を見計らってふんわりと抱き寄せられた胸に身体を預けると、お互い少し照れたように顔を見合わせた。
「今度また、人間界の話を聞かせてくれ。おまえが生まれ育った世界を、俺ももっと知りたい。
―― ただし人間界に帰りたい、はなしだぞ。おまえは俺のものなんだからな」
「うん。人間界は大切な故郷だけど…。
私はレオンとずっと一緒に生きていきたいもの」
家族と友達、学校や住んでいた街の風景は今も、ふとした時に心を掠めるけれど。それは哀しみでも淋しさでもなく、温かい懐かしさだから。
たとえ確実に帰れる術(すべ)があったとしても。
こんなに愛している、こんなに愛されている存在(ひと)がいる魔界(せかい)を、去ることなんてできない。
自分だけが甘えられる腕の中で、幸せに満たされながらくるみは微笑んだ。
「あ、そうだ、レオン」
「何だ?」
「おかえりなさい。お仕事、お疲れさま」
言いそびれていた大事な言葉をようやく思い出し、軽くキスをする。
最初きょとんとしていたレオンも、すぐに破顔して。
「ああ…、ただいま」
ふたり同時に唇を寄せると、
飽きることなく、朝以来の甘い口付けを交わした。
fin.
2010,08,15
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