放っておいてください。
険のある声音に、逃げられても困ると素っ気なく返したものの、最早それは口実にしか過ぎなかった。
見え透いた嘘も頑なな反発も、親とはぐれ傷を負った仔猫が、何も信じられず、弱々しくも必死に威嚇しているようで。
レオンは小さな肩を掴んだ手を、放すことができなかった。
―― この瞳をやはり、識っている。
同情や共感とも違う。もっと近い処で、確かに何時(いつ)か、同じ瞳を見た気がした。
魔界は、非力な人間の女が、後ろ盾もなく安穏と生きていける世界ではない。彼女自身が言う通り、どれだけ嫌がろうと、他に行く当てがあるはずもない。
贄として必要なのは、赤い月に差し出す器のみ。心など、例えば正気を失うほどに壊れても、何の支障もない。
そんな建前を幾つ並べても。
今すぐくるみを、全てから守ってやりたい。その想いはもう、誤魔化せなかった。
「………」
無言で華奢な身体を抱き上げ、歩き出す。案の定、暴れて逃れようとするのを、腕力と「黙れ」の一言で抑え付ける。
そのまま彼女の部屋の前を通り過ぎると、はっきりと息を呑むのが聞こえた。
どんな誤解をしたのかは、わざわざ尋ねるまでもなかった。
「……は、放して!!
いやあっ! 誰か!! アインス、アインス!」
「うるさいっ!!」
「……!」
一層暴れ出したのも束の間、激昂に身を竦ませる。言葉も継げられなくなった青ざめた横顔に、レオンは内心苦虫を噛み潰した。
こうやって無闇に負の感情を投げ付けてしまうから、怖がられ、嫌厭される。
最近の彼女とのやり取りでそれは分かっていたのに、けれど、……許せなかった。
腕の中で、他の男の名前を呼ばれることが。
「………」
夕食の時も、似た気持ちだったことを思い出す。
あんな悲愴な面持ちで人間界を恋しがるのは、―― ここに…傍にいたくないのだと、言外に告げられているも同然で……。
灯りを落とした部屋のベッドに寝かせても、くるみは微動だにできずにいる。
隣に並び頬に触れると、畏縮しきった微かな震えが、指先に感じられた。
「怯えるな」
おまえが恐れるようなことは何も、しないから。
このままひとりで泣かせたら、
たぶんおまえは二度と、
本当の笑顔を見せてはくれない。
おまえにまた、微笑ってほしい。
それだけ、だから…。
「……怯えるな」
「やっ…!」
腰を抱き寄せた腕に、抵抗と言うにはあまりにか細い悲鳴があがる。
構わず懐かしい唄を口ずさみ始めると、振り払おうともがいていた両手が不意に止まった。
体温と心音。
少し物悲しく、やわらかな旋律。
遠い昔、不安を抱えていた夜にも、
温かい眠りをくれたもの。
それこそ、子供騙しかもしれない。
でも俺は、
誰かにやさしくする術(すべ)を他に、知らないから…。
音がひとつ、静やかな月光に吸い込まれるたびに、互いを隔てていた見えない壁も消えていく。
やがて閉じられた瞼から零れた涙に、レオンは思わず腕の力を強めた。
「うっ……ひっく、ひっく……」
泣きじゃくるくるみが、何故かとても愛おしくて、―― 同じだけ哀しくて。
その背中を、更にきつく抱きしめる。
あれほど癪に障った郷愁も、今はただ、有りのまま受け止めてやりたかった。
ここまで追い詰めてしまっていたのだと、追悔を伴い、哀情は増していく。
だが同時に、止め処なく溢れる雫は、胸の最奥へと伝って。
長くそこで凝っていた“何か”を、甘く溶かし出していくようだった。
to be continued.
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