郷愁を包む唄- 2 -

 吐息に続き、静かに名前を呼ばれる。
 レオンはゆっくりと手を伸ばし、涙の跡を拭うようにくるみの頬を撫でた。
「ありがとうございます…」
「ふん…、そうだな、ありがたく思え」
「……ふふっ…」
 柄にもないことをしているのが急に面映くなって、平静を装う口調がぞんざいになる。
 しかしそれを見抜いた小さな笑い声に、何故か心はふっと和らいだ。
「そういえば、おまえの涙を見るのは初めてだ」
「見せないように、してきましたから…」
 涙を堪える処なら、たびたび目にしていた。
 彼女が隠れて泣かなければならなかった原因の大半が自分にあることは、認めざるを得ない。
 自責と、思っていた以上の気丈さに感歎したが、実際に口から出たのは、謝罪や賞賛とは程遠いものだった。
「見掛けに拠らず強情だ。そして生意気だ」
「ここに来てから、生意気になっちゃったんです。
 じゃないと生きていけない世界だって、分かりましたから」
「ふむ、それは賢明だ。
 だが俺に生意気を言うのはなしだ」
「……そんなの勝手です」
「俺は勝手な男だ」
 不敵に笑い、わざと横柄に言ってみる。
 表面上は昨日までと変わらない、命令と反抗。
 それでも今そこには、決定的に違う空気(なにか)があって。
 また零れた笑顔に、レオンも穏やかに笑みを返した。
「……落ち着いたか」
「…はい」
 思いがけずくるみから背中に腕を回されて一瞬、息が止まる。
 そっと睫毛を伏せて身体を預ける様は、信頼する恋人に甘えているようで。
 胸に頬を寄せてくる仕種が、愛らしくて仕方なかった。
「……おまえ…」
「はい…?」
 抱きつかれた程度で動揺していることが信じられず、手で口元を覆ったまま絶句する。
 半分夢見心地のような、無防備過ぎる眼差しで見上げられて、更に顔が熱くなった。
「レオン様?」
「おまえには強引に接してきたから、何と言うか、……どうしたらいいか分からん」
「………」
「どうしたらいいか分からないが、どうにかしてやりたくなる」
「どうにかって…」
 それが、自分の為なのか彼女の為なのかさえ、分からない。
 尤も、いきなり衝動的な言葉を投げかけられたくるみが一番、戸惑っているのだろう。
 やや困惑気味に復唱されて、改めてレオンはその意味を思い返した。
「そ、そうだな。キスさせろ」
「………」
「キス、させろ」
 相変わらずの命令形とはいえ、これまでは誰かに触れる許可を求めること自体なかった。
 自ら寄り添ってくるくらい気を許しているのなら、一方的に唇を奪うのは簡単なはずで。
 でももう、傷つけたくなくて……。
「…ダメなのか?」
「……いいですよ」
「……そうか、いいか。そうか…」
「はい…」
 頷いたやわらかな笑顔にほっとする。
 だが、キスを待つように目を瞑った表情に鼓動が妙に早まり、そのまま動けなくなってしまった。
「どうかしましたか…?」
「いや…。なんだか少し、……緊張するな」
「緊張? ……レオン様が?」
 不思議そうに問われて、つい正直に吐露してしまう。
 信じられないといった様子に失言を覚ったが、取り消すには既に遅かったらしい。
 声をあげて笑うくるみに、レオンは軽く眉を寄せた。
 確かに先刻から、らしくない言動ばかりしている。
 女といて、緊張されることはあっても、したことなどないのに。
 こいつが相手だと、どうも調子が狂う。
 以前はそれが酷く不愉快で。けれどこんな顔が見られるなら、意外に悪くないと思えた。
「おまえ…、この俺様を笑ったな」
「ごめんなさい。でも、……ふふっ…」
「全く…」
「ん……」
 一度、ごく軽いキスを落とす。
 嫌がっていないのを確認した後で、熱に浮かされたように幾度も甘い温もりを掬った。

      力尽くで深く舌を絡めるより、
      おまえが受け入れ、応えてくれるなら、
      こうやって淡く唇を重ねるだけでもいい。

      思い通りにならなくても。
      強情でも生意気でも。

      おまえ自身の意思で、微笑ってくれる方がいい…。

 繰り返し合わせた唇をようやく離す。
 間近で見つめた、まだ僅かに潤む瞳は、もっとキスをせがんでいる気がして。
 ほんの少しだけ濡れた薄紅を親指で辿ると、まるで小さな子供をあやすように頬に口付けた。
「眠れ。今日は俺がついていてやる。
 余計なことは一切考えず、……眠れ」
「……はい」
 素直に閉じられた双眸にふと浮かんだ愛しさ(おもい)の名に気付かぬまま、再び子守唄を口ずさむ。
「レオン様、…本当にありがとう」
 返事の代わりに、今夜は幸せな夢が見られるようにと、額に“おやすみのキス”をして。
 程なくして安らいだ寝息が聞こえてきても、レオンはしばらくその眠りを守るように歌い続けていた。
 何度傷つけられても、こうして「ありがとう」と言える。
 それは純真さでありやさしさであり、……毅さ、なのかもしれない。
 メイドで人間の乙女で、そして、
 この腕の中で眠るのは“くるみ”なのだと、今にしてそんなことを思った。

 どうしたら、もっと笑顔が見られるだろう。
 どうしたら、泣かせずにいられるだろう…?

 未だ心奥を波立たせている涙を拭い去れずに、ずっと…そう考えている。
 おまえが笑うと、いつのまにかやさしい気持ちになれる。
 これはたぶん、一時の感傷ではないから。
 月が赤く染まる夜が訪れても、
 おそらくもう、―― きっと。

fin.

2008,11,23

郷愁を包む唄 1

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