re-start- 1 -

 ライラベルの、対外的には執務室と称されている一室で、この日の勉強を終えたディーンは窓際へ歩きながら力一杯伸びをする。
 先刻までの難渋な顔が一転した年相応の少年らしい仕種に、しかしアヴリルは僅かに瞳を曇らせた。
 両種族の代表である以上、人間とベルーニ族、ファルガイアについての最低限の知識は持っておかなければならない。当初は嫌々という風情だったのだが、最近ディーンは、アヴリルやトニーのみならず、時にはキャロルやエルヴィスにも、自ら先生役を頼むようになった。
 月の半分はカポブロンコを、残り半分はライラベルを拠点に、状況に応じて各地を訪ねる日々の中でも、毎日少なくとも一、二時間は、そういった勉強に充てている。
 とはいえ本来彼は、机の前にじっと座っていることが好きなタイプではない。専門書を前によく頭を抱えているが、その日決めた分は決して途中では投げ出さなかった。
 それ自体は良い傾向と言えるのだろうが、手放しでは喜べない問題が一つだけあった。
 彼の性格を最も反映していた快活な笑顔が、近頃明らかに減ってきている。親しい者達は皆懸念しているのだが、同時に理由も察している為に、誰もがしばらくは黙って見守ろうと、横から口を挿まずにいるのが現状だった。
 おそらくみなさんは、わたくしのことも気にしてくださっているのですね…。
 判っているからこそ、これは自分が切り出さなければならない。
 アヴリルは伏せ気味にしていた目を上げると、ゆっくりと立ち上がった。
「ディーン、聞きたいことがあるのですが…」
「ああ、何だ?」
 振り返ってこちらを見る眼差しは一見、初めて会った時のように率直なままで。
 けれど今その深奥(おく)は、遣り場のない大きな喪失感に苛まれている。
 次の言葉は、未だ血の滲んでいる傷口に、塩を塗るのに等しいのかもしれない。
 それでも互いに一度は、向き合わなければならない事実(こと)だから ――― 。
「ディーンにとって過去に戻ったアヴリルは、特別な存在だったのですよね…?
 そして彼女を、ループから解放したいと思っている…」
「―― ああ…」
 核心を突く問いに、息を呑む瞬間の無言と低く重い声が返る。
 だが短く嘘のない一言は、予想に反してやわらかく胸に届いて。
 気負っていた肩の力が抜けると、足元の覚束ない濃霧の向こうへ手探りで進むような憂慮も消えていた。
「答えにくいことを聞いてごめんなさい…。
 でも、変に誤魔化したりしないで、そう言ってもらえて良かったです」
「……ずっと、不思議だったんだ。
 何で、オレの気持ちは違うんだろうって…」
 一方でらしくなく、“何”への ―― “誰”への感情なのか明言を避けたディーンの声音はまだ硬く、それでいて何処か心許なく揺らいでいる。
 いつからか彼の内で燻り出していた、自身への不信に似たものが、そこに垣間見えた気がした。
「それはあの手紙にあったように、彼女とわたくしが、少し違っているからです。
 なので別に、おかしくはありませんよ。
 だって、わたくしのディーンに対する気持ちも同じですから…」
「…ああ、そっか。……そう、だよな…」
「彼女の一万二千年にも渡る冷たい眠りを、本当の意味で解いたのはディーン、あなたです。
 心の氷が溶け出して無意識に溢れた涙は、あなたの心にも深く刻まれた…。
 わたくしはその、記憶のない状態でもなお暗くて寒い場所を嫌うような、コールドスリープを経験していません。
 たったひとつの出来事が、ヒトの心を大きく変えることがあります。
 ですから彼女とわたくしは確かに、“少し違う人物”なのです。
 ……そうですね、とても良く似ているけれど、違う環境で育った双子の姉妹というのが、近いかもしれません」
「………」
 ああ、もしくはうん、だったのか、図らずも零れたような微かな呟きに続いて、先程とは異なる穏やかな沈黙が降りる。
 失ってから識る想いは、真摯であればあるほどにきっと、痛みも悔恨も増して。
 残された言葉を大切にする余り、必死に何かに打ち込むことで、取り戻せない“時間”に囚われてしまいそうな心を無理矢理、奮い立たせていたのかもしれない。
 それは結局、「自分を責めている」のと同義なのだと、気付いたのだろうか。
 ディーンは、全てが腑に落ちたという表情(かお)でふっと息をついた。

to be continued.

re-start 2

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